32歳 女性 医療専門職うつ病なんてお豆腐メンタルがなるもので、私には関係のない話だと思っていました。
忙しく仕事をしている自分も、勉強を頑張っている自分も好きでした。ただ、頑張っていないと不安で、走っていない自分は受け入れられませんでした。うつ病と向き合い生きていくためには、今までとは違う自分を受け入れること、新しい生き方を見つけることが必要でした。
私は大学を卒業と同時に医療関係の免許を取得して、高齢者施設で仕事をしていました。
在学中から様々な理論に興味を持ちました。
卒業後も勉強会に熱心に参加していた!
そのうちに、もっと勉強がしたい、研究をして新しい知見を築いていきたい、と思うようになり大学院進学を決めました。
そして、大学時代にお世話になった先生を追いかけるような形で全く知り合いもいない山間の土地に一人で移り住みました。
学費と生活費のため昼間は病院の仕事、その後は夜中まで研究室で自身の研究という毎日でした。体は疲れていましたが、充実した日々だと満足していました。そんな生活を半年ほど続けたころ体に変調が現れ始めました。最初に気がついたのは食欲不振でした。コンビニに行っても食事を選んで買うことができません。
どれを手にとっても食べたいような気がせず、結局何も買わずに店を出ることが何度もありました。
体重も減っていき48㎏あった体重が40㎏にまでなりました。次に、寝つきが悪くなっていきました。疲れて帰宅してもなかなか寝つけず、天井を眺めたまま外が明るくなっていく日が増えました。
また、研究論文が読めなくなっていきました。集中して文章を読んでいるつもりが頭に入ってこず、1時間で1ページも読みすすめることもできなくなりました。
この時の絶望感はひどかったです。
私は無能になってしまったのだと、目の前が真っ暗になっていきました。
もう私には価値はないんだ、消えてしまいたいと、毎日考えました。自分が悔しくて涙が止まりませんでした。
その時ようやく研究室の先生が私の異変に気がついて、心療内科を受診するように勧めてくれました。
初めて会う心療内科の先生はいかにも優しそうな中年の男性でした。これまでの生活のこと、心身の変化のことなどを、先生は真剣に強く頷きながら話を聞いてくれました。
そして「あなたは、抑うつ状態だよ。だからつらいんだよ」と落ち着いた調子ではっきりと言いました。この言葉で私は涙が溢れ出しました。私が無能になったわけじゃないんだ、
うつだったんだ…と、今までの苦しみを全部説明してもらえたように感じました。
先生は「必ず良くなるからね」と言って下さいました。この日から私のうつ治療が始まりました。
精神安定剤、抗うつ薬、睡眠導入剤の服薬で、少しずつ睡眠がとれるようになりました。
また、1日3回食べたくなくても菓子パンなどを口にするようにしました。少しずつ論文も読めるようになっていきました。
それでも以前のような集中力はなかなか戻らず、思うように研究は進んでいきませんでした。
病院と大学院を行き来する生活は変わらず、この生活を続けている限りすっかり元気になることはないんだろうな、とどこかで感じていました。
しかし、なかなか諦めきれず心療内科に通いながらも以前と変わらない生活を送っていきました。
辛い日と前向きな日を繰り返しながら、低空飛行ながらも墜落せずにギリギリのところで生きている感じでした。
そんなある時の診察で先生は「走り続けているとガソリンが切れるんですよ。ガソリンが切れると走れなくなるでしょう。
でもね、給油すればまた走れるんですよ」とおっしゃいました。
私は私のあるべき姿に囚われていました。
私は私のあるべき姿とは!?
私は仕事もバリバリこなして研究で成果を出して夢に向かって走り続けていてバイタリティーに溢れた人間で自立した女性で…そこから外れたらもう人生は終わりだと思っていました。
でも、もうガス欠なのを認めざるを得ませんでした。給油をしよう、また走れるなら、もう休もう。そしてその日、大学院を休学して実家で過ごすことを決意しました。
それからは実家に帰りスイッチが切れてしまったように、何もせずに1年ほどただただ無為に過ごしました。不安や焦りもありました。それでも両親は何も言いませんでした。
ただ、その1年でわかったことは、こんなでも生きていていいんだな、ということでした。この気づきが私を大きく変えてくれて、生きていく力を与えてくれました。
その後、私は大学院に戻り修士号を取得することができました。
仕事を見つけることもできました。今でも、仕事で無理をすることは怖いです。
でも、ゆっくりとしたペースで仕事をしている自分も以前より受け入れられるようになりました。
うつはたくさん辛い経験をしますが、新しい生き方を教えてくれることもあります。
これからは、どんな自分も大切にしてあげようと思っています。