放送業界でうつ病!テレビ番組制作現場スタッフの激務労働体験談!

このページにはプロモーションが含まれています

子どもの頃から『真面目だけが取り柄だね』と言われ続けていた私を、両親は大学附属の私立中高一貫の女子校に通わせてくれていました。

おそらくはそのまま大学に進学してほしいと思っていたのでしょう。

ですが私は『やりたいことがある』と大学進学をせず、放送系技術を学ぶ専門学校への進学を選びました。

両親の期待や想いを裏切ってまで自分で選んだ道、後戻りはできないと覚悟を持って進学、その後も学業に励み、業界では大手とされる制作会社へ正社員として就職しました。20歳の頃です。

その頃は放送業界が右肩上がりで、20%を超える視聴率を得る番組も少なくありませんでした。1日にいくつもの収録現場をハシゴし、夜明け前に出勤して退勤するのは日付が変わり、更に夜明けも近い時刻、というような日が月に何日もありました。

それでも仕事は楽しかったし、やりがいもあるし、働くだけ増えていく給与にも満足していて、何も不満はありませんでした。

この生活がじわじわと身体を蝕んでいたことに、私自身、気が付いていませんでした。

スポンサーリンク

女性であること

よく思われているイメージの通り、テレビ番組制作の現場のスタッフ、特に技術スタッフの8割は男性です。

それはどうしても女性一人の力では持ち上げられない重たい機材が多いことや、身長的に不利だったりすることが多いと思います。

私の身長は160cmなく、また特に膂力が優れているわけでもありません。

そのため、『これだから女は』と言われることは少なくありませんでした。

でも逆に『女性だからこそ』できる仕事というのもあり、そこに活路を見出した私は『男性に負けるものか』と必死でした。

必死だったから、自分の仕事が終わったあとに、まだ続いている収録現場へ見学に行ったり、先輩にあれこれ聞いたり、体力が続く限り必死に仕事に食らいついていました。

スポンサーリンク

睡眠不足と生活の乱れが招いたミスが重なる

当時、朝2時半出勤というシフトや夜21時出勤というシフトが交互になっていたこともあったのでしょうが、私の生活は乱れに乱れていました。

夕方の5時頃に寝て深夜0時に起床することや、朝の4時5時に寝て昼過ぎに起床と日によってバラバラの睡眠時間は、心身のバランスを少しずつ狂わせていきました。

4年ほど経った頃から、しっかりした睡眠がとれないことで頭がボーッとしたまま仕事に入るということが増えていきました。

先輩たちからも叱責とまでは言いませんが、かなり厳しい言葉で言われることも増えていきました。

仕事ができない自分が許せませんでした。

そんな中任された仕事、それも生放送の中で大きなミスをしました。

生放送における技術のミスというのはどういうことか、そのミスがそのまま放送に直結してしまうということです。

一体何十万人に見られたのでしょう。

上長にかなり叱責されました。

更にその後、使用した機材を戻すことを忘れてしまうことが立て続けに2度ほど起き、そのうち1件は局に出入りしている別の制作会社にまで迷惑をかける始末。

今になって思えば、この頃から『健忘』と呼ばれる症状が出ていたのだと思います。

なんて自分はダメなのだろう。

まともに仕事もできない、でも後戻りもできない。

帰り道で通る国道のガードレールを越えてみようか、高速道路にかかっている歩道橋から飛んでみようか。

何度も考えましたが、その度に『通っている車や運転をしている人に迷惑をかけられないよね』という思いが私を引き留めていました。

スポンサーリンク

これはまずい、と自分で気づけるうちに止まれた

これはまずいと思った私はインターネットで色々調べ、比較的近くにある心療内科を探し、そちらを受診しました。

結果は『うつ病』。その場で診断書が出されました。

これを会社に提出するかどうするか非常に悩みましたが、このまま仕事を続けていても周囲に迷惑をかけるだけであると思ったため、私はまず課長に相談をしました。

課長は『診断書が出されている以上、それを無視することはできない』と3か月の休職の手続きをしました。

私は『仕事を放り出してしまった』という自分の無責任さが許せず、先輩たちにも顔向けができないと逃げるように休職期間に入りました。

人生で初めて『やらなければならないこと』から離れ、担当医から言われた通り、夜寝て朝起きて太陽光を浴びていましたが、それでもやはり『仕事を放ってしまった』罪悪感から何かをする気力は起きませんでした。

夜、ベッドに入るときに『このまま朝が来なければ』と思うことは数知れませんでいた。

もちろん両親には自分が『うつ病』であることを告げましたが、期待を裏切ってまで自分で選んだ道で何も為せなかったことが申し訳なく顔向けできないという思いから実家に戻るという選択肢は選びませんでした。

何より両親を心配させたくなかったのです。

スポンサーリンク

『心配してくれない』友だちがいた

さて、私には高校生当時から仲良くしている友人がいました。

元はインターネット経由で知り合った趣味仲間でしたが、嗜好が似ているのか、自分が興味を持ったものを紹介して今で言う『沼に引きずり込む』をお互いに繰り返す間柄でした。

その友人に、自分がうつ病と診断され、休職していることを告げました。

するとその友人は私にこう言ったのです。 「へー。じゃ暇なんでしょ?沖縄行こうよ」 私は『でも一応病気が理由で休職しているわけだし…』と返しました。

けれど友人は更にこう言ってくれたのです。

「まあそうだろうけどさ、別に寝てなきゃ治らないものでもないでしょ。どこに行こうといいわけじゃん」 目から鱗でした。

そこで気づいたのです。

『やらなければいけない』『後には引けない』『両親に申し訳ない』 私は自分で自分をずっと追い詰めていたのです。

もう今から10年以上も前の話です。

正直当時のことを思い出すと今も苦しくなります。

こうして文章にしていたら涙が止まらなくなりました。

でもこの経験があったから『好きなことのために仕事をする』『のらりくらりしながら生きることは何も悪いことじゃない』『手を抜いて日々生きる』ことを学んだと思っています。

うつ病になったことは自分の人生の中では悪いことではなかったと思っています。