「存在しない記憶」――このワード、呪術廻戦を読んでいない人でもSNSやまとめサイトでチラッと見かけたことがあるんじゃないでしょうか。「なんか字面がエモい」「厨二っぽくてカッコいい」なんて理由でアイコンやハッシュタグに使っている人も多いこのフレーズ、実は完全に呪術廻戦発祥のワードだって知ってました?
しかも本編では、この現象が2度も登場していて、しかもその2回とも主人公・虎杖悠仁が絡んでいるという、なんとも意味深な演出になっているんです。1回目は京都姉妹校交流会編の東堂葵、2回目は渋谷事変の脹相。どちらも虎杖と殺し合いレベルの戦闘をしているはずなのに、なぜか脳内に「経験したことのない幸せな記憶」が流れ込んできて、戦意を失ってしまう……という、ちょっとホラーめいた、でもどこか切ない現象なんですよね。
読者の間では「これって虎杖の隠し能力なんじゃ?」「洗脳系の術式?」「まさかの宿儺絡み?」なんて考察が飛び交いまくって、一時期はTwitter(現X)のトレンドにも顔を出すほどの盛り上がりを見せました。中には「これは呪術廻戦最大の伏線だ」とまで言い切るガチ勢もいたくらいです。
この記事では、そんな「存在しない記憶」について、初出となった東堂葵のエピソードから、渋谷事変での脹相のケース、そして気になる「これって結局虎杖の術式なの?」という核心部分まで、原作のエピソードを振り返りながらじっくり掘り下げていきます。あの独特な浮遊感のある名シーンの真相、最後まで読めばスッキリ理解できるはずなので、ぜひ最後までお付き合いください。
ちなみに「存在しない記憶」というワードそのものは、実は作中のセリフとして誰かが口にしたものではなく、あくまで地の文――つまりナレーション的なモノローグとして使われている表現なんです。キャラクター同士の会話の中で説明されるわけではないからこそ、読者側に解釈の余地が生まれ、ここまで多種多様な考察が飛び交う土壌になったとも言えます。この絶妙な「説明しすぎない」バランス感覚こそ、呪術廻戦という作品の大きな魅力のひとつなんですよね。
初出は東堂葵!虎杖との間に生まれた「存在しない記憶」
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まず「存在しない記憶」が初めて登場したのは、単行本5巻・第35話が収録されている「京都姉妹校交流会編」です。呪術廻戦を1巻から追っている人なら覚えているであろう、あの東堂葵と虎杖悠仁の一騎打ちのシーンですね。
このときの東堂は、まだ虎杖にとって「敵か味方かよくわからない、やたら距離感のバグったイケメン」でしかありませんでした。京都校と東京校の交流戦、しかも東堂は虎杖と初対面。にもかかわらず、東堂は開口一番、恋バナにも似た質問を虎杖にぶつけます。「お前の好みの女のタイプは?」というやつです。
戦闘中に突如流れ込んだ「学生時代の記憶」
命のやり取りをしているはずの戦闘の真っ最中に、なぜか繰り広げられる恋愛トーク。読者としては「え、今そのタイミングでする話?」とツッコミたくなる空気の中、虎杖が「尻がでかくて背が高い子が好き」的な回答をした瞬間、東堂の脳内に異変が起こります。
東堂の頭の中に、突如として「自分と虎杖が学生時代からの親友だった」という記憶が溢れ出してきたのです。しかも、その記憶の中には人気アイドル・高田ちゃんまでもが同級生として登場するという、なんとも豪華で幸せいっぱいの青春の1ページ。放課後にバカ話をしたり、進路の相談をしたり――そんな「もしもの青春」が、まるで本当にあった出来事のように東堂の脳裏を駆け巡ったわけです。
ただし、これは冷静に考えるとどう考えてもあり得ない話なんですよね。東堂は京都校の生徒で、虎杖は仙台出身、しかも高専に入学するまでは呪術の「じ」の字も知らない一般人だったわけですから、2人が同じ学校で青春を送っていたなんて時系列的にも地理的にも成立しません。つまりこの記憶は、100パーセント「存在しない記憶」というわけです。
作中の地の文でも、はっきりとこの現象が「東堂の脳内に溢れ出した存在しない記憶」だと明記されています。ギャグのようなシリアスのような、なんとも言えない絶妙な空気感でこの言葉が使われたことで、読者の頭にも強烈にインプットされたんですよね。
「兄弟」認定される虎杖、困惑しかない
この一件のあと、東堂は虎杖のことを完全に「兄弟(ブラザー)」認定します。もう周りがどう見てもドン引きするレベルの距離の詰め方で、虎杖に対して異常なまでの親愛を見せるようになるんです。命がけで対等な存在であろうとしたり、黒閃という高等技術を惜しみなく伝授しようとしたり、その後の展開でも事あるごとに虎杖のために身体を張る場面が続きます。
正直、虎杖からすれば「え、初対面だよね?」「なんでそんな急に距離感ゼロなの?」と困惑しかないはずなんですが、この現象のおかげで東堂は虎杖にとって最も信頼できる仲間の1人になっていくわけですから、結果オーライと言えば結果オーライ。読者的にも「もうこの2人、ずっと親友でいいじゃん」と思わせる説得力があるあたり、さすがの筆力だなと感じます。
このエピソードが初出だったこともあって、当初ファンの間ではこの現象を「東堂の変わり者すぎる思考回路が生み出したただのギャグ演出」だと解釈する人が多数派でした。東堂はもともと「自分が信じたいものこそが真実」という、かなり独特な価値観を持ったキャラクターとして描かれていましたから、「まあ東堂だしな」で納得できてしまう説得力もあったんですよね。
ネットミーム化した「存在しない記憶」
ところがこの「存在しない記憶」というワード、呪術廻戦の人気爆発とともに、原作の文脈を離れてひとり歩きを始めます。SNSやイラスト投稿サイトでは、「本編では描かれなかったけど、こうだったらいいのに」という妄想や二次創作を指す言葉として定着していったんです。
たとえば「このカップリング、公式ではまったく絡みがないけど、脳内で勝手に幸せな関係性を補完してしまう」なんてときに「存在しない記憶が溢れてきた」なんて使い方をするファンが続出。もはや呪術廻戦を読んだことがない人でも、なんとなく「エモい妄想が溢れてくる現象」くらいのニュアンスで使っているケースも見かけるほどです。
こうしてネットミームとして独り歩きを始めた「存在しない記憶」ですが、原作ではこのあとまさかの2度目の発動を迎えます。しかも今度は、ギャグ色の強かった東堂編とは打って変わって、かなりシリアスで切ない文脈での再登場となるんです。
アニメ化でさらに拡散した「存在しない記憶」
このエピソードの知名度をさらに押し上げたのが、TVアニメ版の存在です。アニメ本編のセリフやナレーションでは「存在しない記憶」という単語こそ直接使われていませんが、原作既読勢がSNS上で「ここ、例のシーンだ!」と盛り上がったことで、アニメ勢の間にもこの言葉がじわじわと浸透していきました。
放送後にはX(旧Twitter)のトレンド欄にキャラクター名と一緒に並ぶこともあり、「存在しない記憶」というフレーズだけでどのシーンを指しているのか多くのファンが即座に理解できる、いわば呪術廻戦ファンの共通言語のひとつになったと言っても過言ではありません。イラストレーターの間でも、このシーンをオマージュしたイラストや、東堂と虎杖の学生服姿を描いたパロディイラストがこぞって投稿され、公式のグッズ展開とはまた別の形でファンダムを盛り上げる要素になっていました。
こうした二次的な広がりを見ていると、原作者が意図していた以上にファンの創造力を刺激した演出だったのかもしれません。1話分のワンシーンが、ここまで長く語り継がれるというのは、それだけこのシーンに込められたインパクトと「エモさ」が本物だった証拠でもありますよね。
脹相にも発動!「お兄ちゃん」としての記憶の真相
「存在しない記憶」が2度目に発動したのは、物語も大きく動く渋谷事変。虎杖と脹相の一騎打ちのシーンです。アニメでは第37話「赫鱗」として描かれた、呪術廻戦屈指の名バトルのラストに、この現象が再び姿を現します。
渋谷事変、虎杖vs脹相の死闘
脹相は九相図のひとりであり、宿儺の器候補として生み出された特殊な存在。虎杖もまた宿儺を身体に宿す特別な存在ということで、この2人の戦いはもともと因縁めいたものを感じさせる設定になっていました。実際、脹相にとって虎杖は「敵の器」であり、優しさなど微塵も見せる必要のない相手だったはずです。
戦闘は熾烈を極め、虎杖はあと一歩のところまで追い詰められます。もはや脹相がトドメを刺すだけ、という絶体絶命の状況。読者としても「ここで虎杖が退場してしまうんじゃないか」とハラハラしながらページをめくった人も多かったはずです。
ところが、まさにその瞬間、脹相の脳裏に突如として「存在しない記憶」が流れ込みます。それは、虎杖と自分が「兄弟」として過ごしてきたかのような、温かく懐かしい記憶。トドメを刺そうとした手が止まり、脹相はその場から静かに立ち去ってしまうんです。
「お兄ちゃん」として刻まれた記憶の中身
この記憶の中で、脹相は虎杖のことを「弟」のように、あるいは自分自身を「お兄ちゃん」として認識するような、家族としての温もりを感じる場面が展開されます。九相図の兄弟たちと過ごした記憶とも重なるような、しかし現実には決して起こり得なかったはずの「もう1つの人生」が、脹相の脳内に一瞬だけ流れ込んだわけです。
考えてみれば、脹相たち九相図はもともと同じ「宿儺の器候補」として、加茂憲倫(かも けんりん)によって生み出された存在です。つまり虎杖と脹相は、血のつながりこそ違えど、同じ目的のために生まれたという意味では「兄弟」に極めて近い立場にあると言えなくもありません。だからこそ、この「存在しない記憶」が単なる偶然や気の迷いではなく、どこか運命的なものを感じさせる演出として、多くの読者の心を掴んだんですよね。
脹相の特殊体質「赤血操術」との関係
脹相のケースを読み解くうえで欠かせないのが、彼が持つ「赤血操術(せっけつそうじゅつ)」という術式です。この術式には、血縁関係にある相手の命の危機を、離れた場所からでも強く感じ取れるという特殊な性質が備わっています。
つまり脹相は、生まれながらにして「血のつながりを介した特別な感応力」を持っているキャラクターなんです。九相図の兄弟たちに対しても、常人離れした強い絆と情を見せる場面が随所に描かれていますよね。この「血縁への強い感応力」という設定を踏まえると、脹相が虎杖との戦闘の中で「兄弟としての記憶」を幻視したこと自体、彼の術式の特性と地続きの現象だったと解釈することができます。
東堂のケースが「変わり者の東堂だからこそ起きた妄想」だったのに対して、脹相のケースは「血縁を強く感じ取る術式を持つ脹相だからこそ起きた感応」という、まったく異なるメカニズムで発生した可能性が高いというわけです。実際、原作者自身も後にこの2つの現象について「それぞれ別の理由で起きている」という趣旨のコメントを残しており、両者を同一の原因で片付けてしまうのは早計だったことがうかがえます。
戦いを降りた脹相、その後の関係性
この一件をきっかけに、脹相もまた東堂と同じように、虎杖に対して敵対心を大きく後退させることになります。九相図の兄弟たちを愛していた脹相にとって、虎杖に芽生えた「兄弟のような感覚」は、決して軽いものではなかったはずです。以降のストーリーでも、脹相は虎杖たちと共闘する場面が増えていき、当初の「敵」というポジションからは考えられないほどの関係性の変化を見せていきます。
東堂も脹相も、最初は虎杖と敵対していた、あるいは少なくとも味方とは言い難い立場だったキャラクターです。それが「存在しない記憶」という現象をきっかけに、揃いも揃って虎杖の心強い仲間へと変わっていく――このパターンが2度続いたことで、読者の間で一気に「これはただの偶然じゃないのでは?」という空気が強まっていったのも当然の流れだったと言えるでしょう。
東堂のケースとの決定的な違い
改めて2つのエピソードを見比べてみると、演出のトーンがまるで違うことに気づきます。東堂編は基本的にコミカルなノリで進行し、読者もどこか笑いながら見守れる空気感がありました。恋バナから始まって、まさかの妄想の学生生活へとなだれ込んでいく展開は、シリアスな戦闘の合間の箸休め的な役割も果たしていたように思います。
一方の脹相編は、命のやり取りが極限まで張り詰めた渋谷事変というシチュエーションもあって、終始重く切ないムードで描かれています。同じ「存在しない記憶」というワードが使われていても、読んでいるときに感じる感情はまったく別物なんですよね。この温度差こそが、多くの読者に「単純な繰り返しじゃない、何か意味があるはずだ」と感じさせた大きな要因だったのではないでしょうか。
当時のファンの反応を振り返る
脹相編が掲載された当時、考察系のまとめサイトやSNSでは「ついに2回目が来た」「これは絶対に意味がある」といった声が相次ぎました。中には「これは虎杖が宿儺の器候補だったことと関係しているのでは」「実は虎杖自身も気づいていない特殊体質なのでは」など、かなり踏み込んだ考察を展開するファンも多く見られました。
また、脹相というキャラクター自体が渋谷事変を境に一気に人気を伸ばしたこともあり、「存在しない記憶」がきっかけで脹相の内面や過去に注目が集まったという側面も見逃せません。九相図の兄弟たちとの関係、そして虎杖との奇妙な絆――この一連の流れが、脹相というキャラクターの奥行きをぐっと深める結果になったのは間違いないでしょう。
さて、ここまで読んでくださった方が一番気になっているのは、やっぱり「結局これって虎杖の能力なの?」という部分だと思います。ここからは、この現象の正体について、これまでに判明している事実を整理しながら考えていきましょう。
ファンの間で加速した「虎杖術式説」
「存在しない記憶」が2度も発動し、しかもどちらも虎杖が絡んでいるという共通点から、読者の間では自然と「これは虎杖の隠された術式なんじゃないか」という説が広まっていきました。
そもそも呪術廻戦という作品において、虎杖悠仁というキャラクターはかなり異質な立ち位置にいます。特級呪物である両面宿儺を身体に宿しているにもかかわらず、序盤から中盤にかけて、虎杖自身の固有術式がなかなか明かされないんですよね。身体能力おばけとしての強さは折り紙付きなのに、肝心の「呪術師としての武器」がはっきりしない。これって、少年漫画の主人公としてはかなり珍しいポジションです。
だからこそ「実は虎杖には、相手に偽りの幸福な記憶を植え付ける、記憶改竄系の術式が眠っているんじゃないか」という考察が、説得力を持って語られるようになったわけです。中には「これは宿儺の術式が関係しているのでは」「虎杖が宿儺の器候補だったことと関係しているのでは」といった、より踏み込んだ考察を展開するファンも少なくありませんでした。
公式の場で語られた「作者の答え」
そんな中、ファンにとって非常に大きな意味を持つ出来事がありました。あるテレビ番組に原作者の芥見下々先生が出演した際、この「存在しない記憶」について言及される場面があったんです。番組内で共演者が「これは虎杖の能力なのでは」と解説したのに対して、芥見先生は首を縦に振らなかった――つまり、はっきりと「虎杖の能力ではない」というスタンスを示したわけです。
さらに、東堂のケースと脹相のケースについては、それぞれ「違う理由で起きている」ことも明かされています。これはつまり、2つの現象を1本の線でつなぐ「共通の術式」のようなものは存在しない、という意味に受け取れます。
正直、この情報が広まったときは「え、まさかの伏線じゃなかったパターン!?」と拍子抜けした読者も一定数いたはずです。でも冷静に考えてみると、これはこれで実に呪術廻戦らしい着地なんですよね。
「天丼」としての演出という側面
芥見先生いわく、東堂と脹相のシーンで同じような演出が重なったことについては、いわゆる「天丼」――お笑いの世界で使われる、同じネタやパターンを繰り返すことで笑いや印象を強める技法――に近いニュアンスがあったとも言われています。
つまり、最初から「存在しない記憶=虎杖の能力」という壮大な伏線を仕込んでいたわけではなく、東堂編で生まれた印象的な演出を、脹相編でもう一度、今度はシリアスなトーンで再利用することで、より強い読者への訴求力を狙った――そんな作劇上の意図があったと考えると、かなり腑に落ちる部分があります。
漫画やアニメにおいて、同じ演出やセリフ回しがまったく違う文脈で繰り返されると、読者はそこに「意味」を見出したくなるものです。今回のケースはまさにそれで、偶然にも似た2度の演出の重なりが、結果として「作中屈指の謎」として語り継がれる現象へと昇華したというわけです。
虎杖の術式が「不明」だったことも憶測を後押し
もうひとつ、この術式説がここまで盛り上がった背景には、虎杖悠仁というキャラクターそのものの特殊性も無視できません。物語序盤の時点で、虎杖の身体能力は明らかに常人離れしていて、砲丸投げの世界記録に迫るような記録を叩き出したり、素手で校舎の窓を蹴破ったりと、およそ一般人とは思えない身体能力の持ち主として描かれていました。
にもかかわらず、肝心の固有術式については長らく謎に包まれたまま。「もしかして術式がない代わりに、何か別の特殊能力があるのでは」という読者の期待と憶測が、「存在しない記憶」という印象的な現象と結びついたことで、術式説が一気に説得力を帯びていったわけです。
ただ、公式ガイドブックや作者コメントを総合的に見ていくと、虎杖の本質はあくまで身体と魂、そして周囲の人物たちから受け継いだ意志にあるという方向性で描かれていて、「存在しない記憶を植え付ける能力」が彼のメインの武器として今後扱われることは考えにくい、というのが現時点で一番説得力のある見方になっています。
「宿儺の器候補」説はどこまで信憑性がある?
考察勢の間では、東堂もまた宿儺の器候補のひとりだったのではないか、という説も根強く語られてきました。もしこれが事実だとすれば、東堂と虎杖の間には「宿儺の器候補同士」という共通項が生まれ、「存在しない記憶」がその繋がりをきっかけに発動したという解釈にも一定の筋が通ります。
ただし現時点で、東堂が宿儺の器候補だったことを直接裏付けるような描写や公式コメントは見当たりません。あくまでファンの間で語られている考察のひとつという段階にとどまっている点には注意が必要です。とはいえ、こうした「公式には明言されていないけれど、状況証拠だけで妙に説得力のある考察」が生まれてしまうのも、呪術廻戦という作品が持つ緻密な設定の作り込みと、キャラクター同士の意外な共通点の多さゆえだと思います。真相がどうであれ、こうやってファン同士であれこれ議論できること自体が、呪術廻戦という作品の懐の深さを物語っているのではないでしょうか。
謎が謎のまま愛される、という贅沢
ジャンプ作品に限らず、少年漫画には「風呂敷を広げるだけ広げて、きちんと畳みきれない伏線」というものが時々存在します。ただ「存在しない記憶」に関しては、たとえ壮大な設定回収がなかったとしても、それぞれのキャラクターの心情や関係性の変化としてきちんと物語に組み込まれている点が非常に丁寧だと感じます。
「謎めいた現象=いつか壮大などんでん返しで回収されなければならない」という思い込みを、あえて裏切ってくれるあたりも、実はこの作品らしい誠実さなのかもしれません。読者を煙に巻くための小手先のミステリーではなく、あくまでキャラクターの内面を描くための装置として機能していた――そう考えると、「存在しない記憶」というエピソードに対する見え方が、また少し変わってくるはずです。
2つの現象、それぞれの「本当の理由」まとめ
ここまでの内容を改めて整理すると、東堂のケースは「自分が信じたいものこそ真実だと思い込む」東堂自身の強烈な個性が生み出した、いわば自給自足の妄想。虎杖はそのきっかけを与えたにすぎず、記憶の生成そのものには一切関与していないと考えるのが自然です。
一方の脹相のケースは、血縁への感応力という特殊体質を持つ脹相だからこそ、虎杖との戦闘という極限状態の中で、九相図の兄弟たちとの記憶や感情が形を変えて溢れ出した現象だと解釈できます。どちらも「虎杖が能力で相手を操作した」わけではなく、あくまで「相手側の内面に眠っていたものが、虎杖という存在をトリガーに表出した」という構図なんですね。
こう考えると、「存在しない記憶」というのは単なるオカルト的な超能力ではなく、それぞれのキャラクターの人間性や背景を色濃く反映した、非常に人間味のある演出だったと言えます。虎杖という主人公が、本人の意志とは無関係に、周囲の人間の内面を揺さぶり、時に敵対関係すら変えてしまう――そんな「人と人との縁」をテーマにした呪術廻戦らしい仕掛けだったというわけです。
まとめ
今回は呪術廻戦屈指の謎として語り継がれる「存在しない記憶」について、東堂葵と脹相、それぞれのエピソードを振り返りながら詳しく解説してきました。最後に、この記事の重要なポイントを3つに整理してお伝えします。
1つ目は、「存在しない記憶」の初出は京都姉妹校交流会編の東堂葵で、虎杖との戦闘中に「学生時代からの親友だった」というあり得ない記憶が東堂の脳内に溢れ出したことがきっかけだったという点です。これは東堂の「信じたいものこそ真実」という独特の思考回路が生み出した、いわば東堂自身の妄想だったと考えられます。
2つ目は、渋谷事変で虎杖と対峙した脹相にも同じ現象が発動し、「兄弟としての記憶」が脳内に流れ込んだことでトドメを刺す手が止まったという点です。こちらは脹相が持つ「赤血操術」という血縁への感応力の高さが関係している可能性が高く、東堂のケースとはまったく異なるメカニズムだったと考えられます。
3つ目は、原作者・芥見下々先生が公の場で「虎杖の能力ではない」ことをはっきりと明言しており、東堂と脹相の2つの現象もそれぞれ別の理由で起きていると語っている点です。壮大な伏線というよりは、それぞれのキャラクターの人間性が色濃く反映された、呪術廻戦らしい人間ドラマの演出だったというのが現時点で一番納得感のある結論と言えるでしょう。
正体がはっきりしたことで、むしろ「存在しない記憶」というエピソードの味わい深さがより一層際立ったように感じます。単なる超能力バトルの伏線ではなく、敵として出会ったはずのキャラクターたちが、虎杖という存在を通して少しずつ心を通わせていく――そんな人間くさい温かさこそが、この現象の一番の魅力なんですよね。
改めて東堂葵や脹相が登場するエピソードを読み返してみると、初見のときとはまた違った感動や発見がきっと見つかるはずです。呪術廻戦はこうした細部にまでこだわった伏線と人間ドラマが随所に散りばめられた作品なので、まだ読んだことがない人はこれを機にぜひ手に取ってみてください。すでに読んだことがある人も、この記事を片手にもう一度読み返せば、東堂と脹相、それぞれのシーンの見え方がガラッと変わってくるはずです。
京都姉妹校交流会編の少し気の抜けたやり取りから、渋谷事変の張り詰めた空気の中での再会まで、同じフレーズがまったく違う表情を見せてくれるのが「存在しない記憶」というエピソードの面白さだと思います。1コマ1コマに込められたキャラクターたちの感情の機微を追いかけながら、ぜひもう一度、東堂と虎杖、脹相と虎杖、それぞれの関係性の始まりを味わい直してみてください。読み終えたころには、きっとまたアニメや原作の続きが無性に気になっているはずです。
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