ケントゥリアはパクリ?ベルセルク等ダークファンタジーとの共通点を解説

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「あれ、この空気感、前にもどこかで味わったことがある気がする」

少年ジャンプ+で毎週月曜に更新される『ケントゥリア』。作者は暗森透先生で、2024年4月の連載開始からじわじわとファンを増やし続けている注目のダークファンタジー作品だ。奴隷船に密航者として潜り込んだ少年ユリアンが、呪われた海域で得体の知れない〈海〉と名乗る存在から力を授かり、生まれたばかりの赤子ディアナを守りながら理不尽な世界を生き抜いていく物語なんだけど、読み進めるほどに「これって『ベルセルク』っぽくない?」って感じたことがある人、実は結構多いんじゃないだろうか。

私自身、単行本を一気読みしたときに感じたのは、絶望と紙一重の高揚感というか、救いがなさそうでいて、それでもどこかに一筋の光を探してしまう、あの独特な読後感だった。SNSの感想を覗いてみても「ベルセルクみたいで震えた」「王道なのにちゃんと新しい」といった声がちらほら見つかって、自分の感覚は間違っていなかったんだなと妙に安心してしまったのを覚えている。

今回はそんな『ケントゥリア』が、なぜあれほど『ベルセルク』を彷彿とさせるのか、そして他にどんな王道ダークファンタジー作品と共鳴しているのかを、キャラクターや世界観、バトル描写まで踏み込んで解説していきたいと思う。単に「似てるポイント探し」で終わらせるつもりはなくて、共通点を掘り下げた先に見えてくる『ケントゥリア』だけの独自性まで、ちゃんと言語化していくつもりだ。「似てる漫画を探している」人にも、「ケントゥリアそのものの魅力をもっと深掘りしたい」人にも、読み終わったころには絶対にニヤけてしまう内容にしたので、ぜひ最後まで付き合ってほしい。

『ケントゥリア』と『ベルセルク』に共通する「過酷な運命に抗う主人公」の構図


まず最初に触れておきたいのが、多くの読者が『ケントゥリア』に対して抱く「ベルセルク感」の正体だ。これは単に「ダークだから」とか「絵が硬派だから」という表面的な話じゃない。もっと構造的な部分、つまり主人公の背負っているものそのものが似ているんだと思う。

正直なところ、世の中には「暗い雰囲気の漫画」なんて山ほどある。でもその全てが『ベルセルク』を彷彿とさせるかというと、決してそうじゃない。読んでいて「ああ、これは同じ根っこを持った物語だ」と感じさせるかどうかは、雰囲気だけでは決まらなくて、主人公がどんな理不尽を背負い、それにどう向き合っているかという構造そのものに宿るものだと思う。そういう意味で、『ケントゥリア』は表面的な模倣ではなく、本質的な部分で『ベルセルク』的なDNAを受け継いだ作品だと言える。

生まれながらに背負う”呪い”—ガッツとユリアン、”持たざる者”の怒り

『ベルセルク』の主人公ガッツは、絞首刑にされた女性の遺体から生まれ落ちるという壮絶な出自を持ち、生まれた瞬間から死と隣り合わせの人生を歩まされる。一方の『ケントゥリア』のユリアンも、自由を求めて奴隷船に密航した先で、呪われた海域に迷い込み、そこで命を落とした百人の奴隷たちの力と命を一身に背負うことになる。どちらも「自分の意思とは関係なく、途方もない重荷を背負わされた存在」なんだ。

ここが重要なポイントで、ダークファンタジーというジャンルの主人公は往々にして「持たざる者」からスタートする。身分もなく、後ろ盾もなく、ただ生き延びることだけを目的に牙を剥く。ガッツもユリアンも、貴族や王族といった「持つ者」たちの理不尽な力の前では本来なら踏み潰される側の人間だった。それでも歯を食いしばって立ち上がる姿に、読者は自分自身を重ねてしまうんだと思う。しんどい現実を生きている自分にとって、彼らの怒りはどこか他人事に思えない。

さらに『ケントゥリア』の世界には「天弓の階層」と呼ばれる異能者の序列組織が存在していて、そこに属さない者たちにとっては、異能者はほぼ神様みたいな絶対強者として君臨している。奴隷という最下層からスタートしたユリアンが、この階層のトップにいるような強者たちと渡り合っていく展開は、まさに身分も力もなかったガッツが、鷹の団という強者集団の中で頭角を現していった過程とも重なる部分がある。生まれ持った境遇の理不尽さと、それを覆すために必要な圧倒的な代償。この二段構えの構造が、両作品の主人公に共通する「怒りの純度」を高めているんだと思う。

諦めない心が生む絶望の中の希望

『ベルセルク』の世界は救いがないことで有名だけど、それでもガッツは歩みを止めない。復讐という一点だけを支えに、どれだけ傷ついても剣を握り続ける。『ケントゥリア』のユリアンも同様に、王国の異能者たちという圧倒的な強者に何度も追い詰められながら、それでも「ディアナだけは守る」という一心で立ち上がり続ける。

この「絶望的な状況でも心が折れない」という描写は、単なる根性論ではなくて、読者に「自分もまだ頑張れるかもしれない」と思わせる装置として機能している。ダークファンタジーが持つ本当の魅力って、実はここにあるんじゃないだろうか。暗い世界観そのものが目的なんじゃなくて、その暗さの中でどれだけ人間の意志が輝くかを見せるためのコントラストとして機能しているんだと思う。

『ベルセルク』の場合、その絶望のどん底として描かれるのが「蝕」と呼ばれる仲間たちの裏切りと崩壊の瞬間だ。信じていたものが根底から覆されるあの展開があるからこそ、その後のガッツの復讐劇に凄まじい説得力が生まれている。『ケントゥリア』にも同様に、味方だと思っていた存在の裏に隠された思惑や、国王による理不尽な粛清といった「信頼が覆される瞬間」が随所に用意されていて、読者の心をこれでもかと揺さぶってくる。裏切りや絶望を経験してもなお前を向く主人公の姿は、読んでいるこちらまで気持ちを持っていかれてしまう。

たった一人を守るために戦う—ガッツとキャスカ、ユリアンとディアナ

ガッツにとってのキャスカ、ユリアンにとってのディアナ。どちらも「守るべき存在」がはっきりしていることで、主人公の行動原理がぶれない強さを持っている。世界全体を救うとか、正義のために戦うといった大義名分ではなく、「この人(子)だけは絶対に失いたくない」というシンプルで痛切な動機だからこそ、読者は感情移入しやすい。

しかもディアナは「予言の子」として国王すら殺し得る存在として描かれており、単なる「守られるだけのヒロイン」に留まらない不穏さを抱えている。この「守るべき存在自体が危険因子である」という構造は、キャスカが呪われた印を持つガッツと共に生きることの危うさとも通じるものがあって、ここでもまた既視感を覚える読者は多いはずだ。守るという行為が、同時に危険を呼び寄せてしまう。この皮肉な構造があるからこそ、主人公の選択には常に緊張感がまとわりつく。

王という「絶対的な敵」の存在―ガッツにとってのグリフィス、ユリアンにとっての国王

ダークファンタジーの物語には、多くの場合、主人公の対極に位置する「絶対的な存在」が置かれている。『ベルセルク』であればかつての盟友であり、今や神のごとき力を手にしたグリフィスがその象徴だ。『ケントゥリア』における国王もまた、400年もの間君臨し続けているとされる規格外の存在で、予言の子であるディアナだけがその国王を殺し得るかもしれないという設定になっている。

主人公が単独で立ち向かうにはあまりに大きすぎる壁がそこにあることで、物語全体にとてつもないスケール感が生まれる。しかもその壁は簡単に崩れない。むしろ物語が進むごとに、その存在の異質さと恐ろしさが少しずつ明らかになっていく構成になっていて、読者はページをめくるたびに「一体どうやってこの敵に届くんだ」と手に汗を握らされることになる。この絶望的なまでのスケール差こそ、ダークファンタジーというジャンルの醍醐味そのものだと思う。

しかも厄介なことに、国王の周囲には「天弓の階層」という強者たちが控えていて、主人公たちは国王本人にたどり着く前に、この階層に属する強敵たちを一人ずつ越えていかなければならない。まるで積み上げられた壁を一枚ずつ剥がしていくような構成になっていて、目の前の敵を倒しても倒しても、その先にさらに強大な壁が待っているという終わりの見えない緊張感がずっと続いていく。この「ラスボスへの遠さ」を丁寧に描くことで、読者は逆にゴールへ辿り着いた瞬間のカタルシスをより強く期待してしまうことになる。

ベルセルクだけじゃない!『ケントゥリア』が想起させる王道ダークファンタジー作品たち

ここまで『ベルセルク』との共通点を掘り下げてきたけど、『ケントゥリア』が想起させる名作はそれだけじゃない。ダークファンタジーというジャンルの系譜を辿ると、いくつもの傑作とリンクする要素が見えてくる。むしろ、それだけ多くの名作の魅力的な要素を吸収しながら、独自の物語として成立させていること自体が、この作品のポテンシャルの高さを物語っているんじゃないだろうか。ここからは具体的に、どの作品のどんな要素と共鳴しているのかを、ひとつずつ丁寧に見ていきたい。

『進撃の巨人』との共通点―理不尽な暴力と人間の無力さ

『進撃の巨人』が読者に叩きつけてきたのは、圧倒的な力の差によって蹂躙される人間の無力さだった。『ケントゥリア』にも、異能を持つ王国側の強者たちが、何の力も持たない奴隷たちを虫けらのように扱う描写がある。奴隷への保険金殺人が船上で始まるあの導入部分なんて、まさに「人の命の軽さ」を叩きつけてくる展開で、進撃の巨人でウォール・マリアが陥落したときのあの絶望感に近いものを感じた人もいるんじゃないだろうか。

理不尽な暴力に晒された人間が、それでも生きるために立ち上がる。この構図こそが、両作品に共通する骨太なテーマだと思う。

さらに言えば、『進撃の巨人』が物語終盤で見せた「敵にも敵の正義がある」という多面的な視点は、『ケントゥリア』における異能者たちの描かれ方にも通じている。王国側の異能者たちは一方的な悪役として描かれるだけでなく、それぞれの立場や過去、譲れない事情を抱えていることが少しずつ明らかになっていく。単純な善悪二元論に収まらない人間ドラマの厚みが、両作品を単なるバトル漫画以上のものに押し上げているんだと思う。

『呪術廻戦』との共通点―異能バトルにおける「代償」というルール

『呪術廻戦』の術式には必ず「制約」や「代償」が存在していて、それがバトルに緊張感を生み出している。『ケントゥリア』も同様に、異能には発動条件や反動が設定されている作品だ。実際にルーカスの持つ槍の異能なんかは、使用した反動で体が動かなくなるという明確なリスクを背負っている。この「便利すぎる力には必ず代償がある」というルール設計が、バトルシーンに単なる力比べ以上の駆け引きと緊張感を生み出している。

無敵の力を持つキャラクターが淡々と敵をなぎ倒すだけの展開だと読者はすぐに飽きてしまうけど、代償を伴う異能バトルは「この局面でどこまでリスクを冒すのか」という心理戦の側面が強くなる。ここに痺れる読者が多いのも納得だ。

加えて、異能の性質や発動条件を戦闘中に少しずつ読者へ開示していく情報の出し方も、『呪術廻戦』的な面白さに近いものがある。「この能力にはこういう弱点があるんじゃないか」と読者自身が推理しながら読み進められる構成になっているからこそ、単なる力比べでは終わらない頭脳戦としての面白さも同時に味わえる。バトル漫画としての完成度の高さは、こういう細部の設計にちゃんと表れているものだと思う。

読者コメント欄を眺めていても「この異能、条件を考えるとかなりヤバい」「反動がないと釣り合わないよな」といった具合に、能力の仕組みそのものについて盛んに議論が交わされているのが分かる。バトル漫画において読者を巻き込んだ考察が生まれるかどうかは、その作品の完成度をはかる分かりやすいバロメーターのひとつだと個人的には思っている。その意味で『ケントゥリア』は、すでに読者を巻き込む力を十分に持った作品に育っていると言える。

『約束のネバーランド』との共通点―守るべき存在が生む極限のドラマ

『約束のネバーランド』は、子供たちが自分より幼い仲間を守るために知恵を絞り、時に犠牲を払いながら脱出を目指す物語だった。『ケントゥリア』のユリアンも、赤子だったディアナを抱え、右も左も分からない大陸を旅しながら彼女を守り抜こうとする。守るべき存在が幼ければ幼いほど、主人公が背負う責任の重さと切実さが増していくもので、これは読者の庇護欲を強烈に刺激してくる展開だと思う。

しかも『約束のネバーランド』同様、味方だと思っていた大人が実は敵側の思惑を持っていたり、優しさの裏に別の目的が隠されていたりと、簡単に他人を信用できない緊張感が常に漂っているのも共通点だ。誰を信じて、誰を疑うべきなのか。読者自身も登場人物と一緒になって疑心暗鬼になりながらページをめくることになる、あの感覚がしっかり息づいている。

『ヴィンランド・サガ』との共通点―奴隷という制度を通じて描かれる社会の残酷さ

『ケントゥリア』の物語は奴隷船から始まる。この設定を見て『ヴィンランド・サガ』を思い浮かべた人もいるんじゃないだろうか。復讐に燃える少年トルフィンが、戦争や略奪、そして奴隷制度が当たり前だった時代を生き抜いていく『ヴィンランド・サガ』は、暴力や理不尽さを美化することなく、そこに存在する社会構造の残酷さそのものを丁寧に描いた作品だった。

『ケントゥリア』もまた、奴隷という身分制度を単なる舞台装置として消費するのではなく、そこに生きる人々の尊厳や、身重のミラのような弱い立場の人間がどれだけ理不尽な扱いを受けるかというところまで踏み込んで描いている。ファンタジーでありながら、現実社会の縮図を見ているような重みがあるのも、この二作品に共通する読み応えのひとつだと思う。

それでも『ケントゥリア』にしかない独自の魅力

ここまで様々な作品との共通点を挙げてきたけど、誤解してほしくないのは『ケントゥリア』が単なる「寄せ集め」の作品では決してないということだ。奴隷百人の力を宿すという設定、〈海〉という謎の超越的存在、そして異能を体系立てて管理する「天弓の階層」という組織構造など、独自の世界観の作り込みは非常に緻密だ。

さらに特徴的なのが、主人公ユリアンと敵対的立場で登場するルーカスとの対比構造だ。武器を持たず素手で戦うユリアンに対し、ルーカスは槍と盾という二つの異能で武装して戦う。黒髪短髪で武器を使うルーカスと、白髪長髪で身一つで挑むユリアン。母を憎んでいたユリアンと、母を大切に思うルーカス。奴隷という最下層で育ったユリアンと、王の子でありながら日陰の存在として育ったルーカス。こうした鏡合わせのような対比が随所に散りばめられていて、読み比べれば比べるほど新しい発見がある構成になっている。

しかもルーカス自身、単なる噛ませ役でも絶対悪でもなく、森林恐怖症という意外な弱点を抱えていたり、殺したいほど憎んでいるはずの父である国王に協力するという矛盾を抱えていたりと、一筋縄ではいかない魅力を持ったキャラクターとして描かれている。こうした敵対キャラクターにまで手を抜かない作り込みの深さこそ、既視感がありながらも唯一無二のオリジナリティを両立させている『ケントゥリア』の本当の強みなんだと思う。

ちなみに「ケントゥリア」というタイトル自体、古代ローマの軍制における百人隊を意味する言葉に由来しているとされていて、ユリアンが百人の奴隷の力と命を託されたという物語の根幹と綺麗にリンクしている。タイトルひとつとってもこれだけ意味が練り込まれているあたり、細部への作り込みへのこだわりが半端じゃないことが伝わってくる。こういう「知れば知るほど深みが増す」設計になっているのも、読者を最後まで飽きさせない仕掛けのひとつなんだと思う。

圧倒的な画力で描かれる『ケントゥリア』ならではのバトル描写

ダークファンタジーというジャンルにおいて、世界観やテーマ性がどれだけ優れていても、バトルシーンの画力が伴っていなければ読者の心はそこまで動かない。どれだけ設定が緻密でも、いざ戦闘が始まった瞬間に絵が説得力を失ってしまう作品は正直少なくない。その点、『ケントゥリア』の作画は間違いなく本作最大の武器のひとつだと言い切れる。ここからは、具体的にどういうポイントでこの作品のバトル描写が優れているのか、細かく分解して見ていきたいと思う。

槍と盾、対照的な異能が生む駆け引きの妙

先述の通り、ルーカスは槍と盾という二種類の異能を操るキャラクターだ。盾の異能は「拒絶したものは絶対に通さない」という圧倒的な防御性能を持ち、槍の異能はラスボス級と評されるほどの威力を秘めている。しかしどちらも無制限に使えるわけではなく、回数制限や反動といった制約が課されているからこそ、いつ、どのタイミングでどちらを切るのかという駆け引きが緊張感を生む。

素手で戦うユリアンとの対比も見事で、武装した相手にどう対処するのかという純粋なバトルの面白さと、キャラクター同士の生き様の対比という物語的な面白さが、同じコマの中で同時に成立している。これはなかなか他の作品では味わえない快感だ。

読者コメントの中には「槍の能力は後付けなのか最初からの構想なのか気になる」といった声も見かけるくらい、後になって明かされる異能の設定にも読者を驚かせる仕掛けが用意されている。一度出てきた能力がそれで終わりではなく、後の展開で新たな側面が発覚し、過去の戦闘シーンの意味合いすら変わってくることがある。この「伏線が後から効いてくる」快感は、何度も読み返したくなる中毒性を生み出している。

暗森透が描く”痛み”のリアリティ

作者・暗森透の作画で特筆すべきなのは、キャラクターが受けるダメージの描写にリアリティがあることだ。派手なエフェクトで誤魔化すのではなく、傷を負った身体がどう軋み、どう血を流すのかを丁寧に描き込むことで、読者に「痛い」という感覚を直接訴えかけてくる。この生々しさこそが、ダークファンタジーというジャンルに求められる緊張感の源泉だと思う。血が流れれば流れるほど、逆に登場人物たちが生きようとする意志の強さが際立って見えてくるのが不思議なところだ。

表情の描き方にも作者のこだわりを強く感じる。追い詰められた時の焦り、大切な人を失いそうになった時の絶望、それでも諦めない時の目つき。感情の機微を線一本、影一つで表現する画力の高さがあるからこそ、セリフに頼りすぎることなく読者の感情を揺さぶることができている。派手な必殺技よりも、こういう地味だけど確実に効いてくる作画の丁寧さが、じわじわと読者を作品世界に引きずり込んでいくんだと思う。

コマ割りと構図で魅せるスピード感

バトルシーンにおけるコマ割りの巧みさも見逃せないポイントだ。異能が発動する瞬間の見開き構成や、攻防が入れ替わる際のコマの緩急のつけ方など、静止画である漫画というメディアの中でどうやってスピード感と迫力を両立させるか、その工夫が随所に光っている。特に大ゴマを使った必殺の一撃の見せ方は、思わずページをめくる手が止まってしまうほどの説得力を持っている。

こうした大ゴマの使い方は、少年ジャンプ+という電子媒体ならではの読み方とも相性がいい。スマホの画面いっぱいに広がる迫力の一枚絵は、紙の単行本で読んでも電子で読んでも、その瞬間だけは思わず画面をスクロールする指を止めてしまうほどの吸引力を持っている。

しかもデジタル版には、ジャンプ+掲載時のカラーページがそのまま完全収録されているのも見逃せないポイントだ。モノクロの単行本だけでは伝わりきらない色彩の演出まで含めて楽しめるので、初めて読む人にはデジタル版から入ることを個人的にはおすすめしたい。カラーで見る異能発動の瞬間は、モノクロ以上に迫力があって、初見のインパクトが段違いだ。

王道になりきらない絵柄―泥臭さと美しさの同居

『ケントゥリア』の絵柄は、洗練されすぎていない泥臭さと、緻密に描き込まれた美しさが同居しているのも面白いところだ。奴隷たちのやつれた表情や薄汚れた衣服のディテールにはリアルな生活感が滲んでいる一方で、異能が発動する瞬間のエフェクトや、王国の荘厳な建築物の描写には、思わず息を呑むような美しさがある。この振れ幅の大きさが、物語全体の「地に足のついた絶望」と「ファンタジーとしてのスケール感」を両立させることに成功している要因なんだと思う。

こうした画力の高さがあるからこそ、重厚なストーリーとテーマ性が単なる「暗いだけの話」に終わらず、エンターテインメントとして最後まで読者を引っ張っていける。ストーリーと作画、その両輪がしっかり噛み合っているのが『ケントゥリア』の強さなんだと思う。

実際、読者からの評価も高く、レビューサイトでは五段階中四点を超える評価がつくなど、口コミベースでじわじわと支持を広げている作品でもある。スマホでサクサク読める手軽さと、読み応えのある重厚なテーマ性を両立させているからこそ、10代から20代のライトな読者から、骨太なダークファンタジー好きの読者まで、幅広い層に刺さっているんだと思う。

まとめ

ここまで『ケントゥリア』が持つ「似てる漫画」としての側面と、独自の魅力について解説してきた。最後に重要なポイントを三つ振り返っておきたい。

一つ目は、『ベルセルク』との共通点だ。生まれながらに呪いに近い重荷を背負った主人公が、絶望の中でも歩みを止めず、たった一人の守るべき存在のために戦い続ける。そして立ちはだかるのは、簡単には届かないほど絶対的な敵の存在。このスケール感のある構図が、両作品を単なるバトル漫画以上の重厚な物語に押し上げている。

二つ目は、『進撃の巨人』の理不尽な暴力描写、『呪術廻戦』の代償を伴う異能バトル、『約束のネバーランド』の守るべき幼い存在を巡るドラマ、『ヴィンランド・サガ』の奴隷制度を通した社会描写など、複数の名作ダークファンタジーの魅力的な要素を併せ持ちながらも、〈海〉という独自の存在や、ユリアンとルーカスの鏡合わせのような対比構造といったオリジナリティをしっかり確立しているということ。似ているようでいて、細部まで作り込まれた独自性がちゃんと同居している。

三つ目は、暗森透の画力によって、痛みのリアリティとスピード感あるバトル演出、そして泥臭さと美しさが同居する絵柄が高いレベルで両立されており、ストーリーの重厚さを裏切らない説得力を持っているということだ。ストーリー、キャラクター、作画。この三拍子が揃っているからこそ、『ケントゥリア』は単なる「ベルセルクっぽい作品」で終わらず、独立した名作としての地位を確立しつつあるんだと思う。

『ベルセルク』が好きな人も、『進撃の巨人』や『呪術廻戦』、『約束のネバーランド』、『ヴィンランド・サガ』に胸を熱くした経験がある人も、『ケントゥリア』を読めばきっと同じ熱量で心を掴まれるはずだ。似ている部分を探しながら読むのも楽しいし、似ているようでいて全然違う独自の展開に驚かされるのも、この作品ならではの醍醐味だと思う。

そしてもし今アニメ化や実写化の情報を待っているなら、原作を今のうちに読んでおいて絶対に損はない。連載中の作品だからこそ、リアルタイムで考察したり、次の展開を予想したりする楽しみ方ができるのも今だけの特権だ。ユリアンとディアナの物語がこの先どこへ向かうのか、国王という絶対的な壁を彼らがどうやって越えていくのか、正直私自身も次の更新が待ちきれずにいる。

読み終わった後、きっとあなたも同じ気持ちになっているはずだから。今日という日をきっかけに、ぜひこの重厚で熱いダークファンタジーの世界に飛び込んでみてほしい。きっと次の休みは、気づいたら一気読みしてしまっているはずだ。