昴と彗星は、登場人物たちが独特の方言を使うのが特徴ですが、その「訛りだべ」のような方言のセリフ回しに読者の意見が大きく分かれています。リアリティを高めるための工夫とも言える一方で、慣れていない人にはテンポが悪く感じたり、感情移入しにくいという声も少なくありません。
物語のスピード感やキャラクターの感情の機微を追いたいのに、訛りに意識が引っ張られてしまう──そんなもどかしさを抱える読者が多いのも事実です。
果たしてこの方言演出は「世界観を支える武器」なのか「読者を遠ざける壁」なのか。今回はその読み心地や物語との相性について、ネタバレを交えながら掘り下げていきます。
【昴と彗星】訛り(なまり)だべが読みにくい!
#昴と彗星 本日からヤングマガジンで連載開始です!
第1話「秋名の幽霊」が掲載されています。新たな公道最速の物語、ぜひお楽しみください!オーバー! pic.twitter.com/tkNntezaQA
— 【公式】昴と彗星 (@SubaruandSubaru) July 22, 2025
訛りに困惑?「だべ」がリアルさと読みづらさを生む
『昴と彗星』は、しげの秀一氏が新たに描く公道レース漫画で、『頭文字D』や『MFゴースト』の世界観を引き継ぐ最新作です。舞台はカナタ・リヴィントンがMFGを制覇した翌年。群馬出身の佐藤昴と、神奈川出身の工藤彗星という二人の「すばる」が峠道で競い合い、新たな伝説を刻もうとします。
群馬弁「〜だべ」との距離感
物語序盤から佐藤昴のセリフには「〜だべ」「〜すっから」といった群馬弁が散りばめられています。確かに舞台設定に忠実でリアリティを高めていますが、一方で「セリフが頭に入ってこない」「感情移入が難しい」という読者の声も少なくありません。作品の臨場感を強めるか、それとも物語理解のハードルになるのか──評価は大きく分かれています。
『頭文字D』は標準語で統一されていた
興味深いのは、同じ群馬を舞台にしていた『頭文字D』では、藤原拓海をはじめ主要キャラクターの会話が基本的に標準語で描かれていたことです。
地元色を出しすぎず、誰が読んでもスッと内容が入ってくる表現が選ばれていたため、読者が物語に没頭しやすい構造になっていました。だからこそ今回の『昴と彗星』における「訛り表現」が、シリーズ経験者ほど強く印象に残り、戸惑いを感じやすいのかもしれません。
【昴と彗星】方言を重視しているのか考察?
『昴と彗星』で佐藤昴が使う群馬弁は、単なるキャラ付け以上の意味を持っていると考えられます。しげの秀一氏がここであえて訛りを強調しているのには、いくつかの狙いが見えてきます。
群馬という舞台を強く印象づけるため
『頭文字D』も群馬を舞台にしていましたが、キャラクターは基本的に標準語を話していました。そのため舞台が群馬であることは設定で示されるだけで、読者は意識しなければ忘れてしまう部分もあったのです。『昴と彗星』では「〜だべ」という訛りを前面に出すことで、「この物語は群馬で生まれている」というリアリティを強調し、舞台の地元性を強く刻み込もうとしているように見えます。
キャラクターの出自や個性を一瞬で表現するため
訛りは、その人物がどこから来たのかを説明する必要がなく、セリフひとつで出自や環境を表すことができます。群馬出身の昴と、神奈川出身で標準語を話す彗星。
この対比を言葉の響きに刻み込むことで、二人の「すばる」の違いを物語の冒頭から視覚的にも聴覚的にも伝えているのです。
方言を通して“素朴さ”や“人間味”を描くため
訛りのある会話は、都会的な洗練とは対照的に「土着」「人間らしさ」を感じさせます。車というハイテク機械を操る物語の中で、方言が入ることでキャラクターがより泥臭く、等身大の若者として浮かび上がります。
これは『頭文字D』で藤原拓海が無口で淡々とした青年だったのに対し、昴をより人間味あふれる主人公として描く工夫とも言えそうです。
シリーズの差別化を意識している
『頭文字D』『MFゴースト』と続いてきたしげの作品群は、いずれも“走り”に重きを置いた作品でした。しかし新作『昴と彗星』では、単に峠や車の描写だけではなく、会話や人間関係にリアリティを与えることを試みているのかもしれません。
訛りを強調することで「ただの続編」ではなく「新しい挑戦」であることを示している可能性があります。
方言が読みにくさや感情移入の難しさにつながるのは確かですが、それは逆に「作品としての強烈な個性」を示す証拠でもあると思います。しげの秀一氏がこの選択をした背景には、群馬を根っこに持つ物語をあらためて“地元の言葉”で描き直したいという意志が込められているのではないでしょうか。
【昴と彗星】ネットの声から見える「方言問題」
『昴と彗星』の方言演出については、ネット上でもさまざまな感想が飛び交っています。
「群馬弁ではない方言喋ってるのが気になって仕方ない」という声は、地元の人だからこそ分かる違和感でしょう。舞台設定が群馬なのに、実際のイントネーションや語尾の使い方と微妙にズレていると、むしろリアリティを削いでしまうという指摘です。これは方言を「演出」として強調した結果、逆に目立ちすぎてしまった一例かもしれません。
一方で「昴と彗星で一番ハマってるの、方言かもしれんw」と笑いながら楽しんでいる読者もいます。確かに、クセの強さは慣れると一種の味わいになり、キャラクターの個性を強く印象づけます。まるで口癖のように残るセリフが、作品の“中毒性”を高めているとも言えるでしょう。
「若者言葉ではなくなったところがおっちゃんになったなぁと思う」という感想は、しげの秀一作品を長年追い続けてきた読者ならでは。『頭文字D』の拓海たちが等身大の若者の会話をしていたのに比べると、『昴と彗星』ではリアルな若者言葉よりも「方言キャラ付け」が優先されており、時代性がやや薄れて見えるのかもしれません。
「登場人物の方言に違和感アリアリ」という意見もあり、作品の没入感にブレーキをかける要素として作用しているのは事実です。ただ、それが「合わない」と感じる人がいる一方で、「クセになって逆に好き」と楽しむ人もいる。この二極化こそが、今回の方言演出がもたらした最大の特徴と言えそうです。
つまり、『昴と彗星』における方言は、リアリティと違和感、個性と不自然さが常に表裏一体で存在しているのだと思います。方言を「壁」と感じるか「味」と感じるかは読者次第であり、その捉え方の違いが作品の評価をさらに面白くしているとも言えるでしょう。
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