劇場版『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』がついに公開され、全国で大ヒットを記録しています。しかし――「正直、つまらなかった」「回想シーンが多すぎて退屈」「なぜこれでヒットするのか分からない」といった、厳しい声がSNSでも散見されるのが現実です。
確かに、原作ファンにとっては感慨深い“猗窩座との因縁の決着”だったかもしれません。しかし一方で、映画として観たときの構成やテンポには疑問符がつく場面も多く、原作を知らない一般の観客とは明らかな“温度差”が浮き彫りになりました。
それでもなぜ、この作品がここまで興行的成功を収めたのか?
本記事では、「猗窩座再来」がつまらないと感じた人の理由や、回想シーンの多さに対する不満、そして原作ファンとの認識の違いなどを踏まえながら、作品の評価とヒットの裏側を徹底的に掘り下げていきます。
「これから観に行こうか悩んでいる」「すでに観たけどモヤモヤしている」そんなあなたにこそ読んでほしい内容です。
【鬼滅の刃猗窩座再来】概要
【絶賛公開中】
劇場版「鬼滅の刃」無限城編
第一章 猗窩座再来第3弾キービジュアルを公開しました。
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— 鬼滅の刃公式 (@kimetsu_off) July 27, 2025
集英社「週刊少年ジャンプ」で連載された吾峠呼世晴のコミックを原作とする大ヒットアニメ「鬼滅の刃」シリーズのクライマックスとなる、「無限城編」3部作の第1章。
鬼になってしまった妹・禰豆子を人間に戻すため、鬼狩りの組織・鬼殺隊に入った竈門炭治郎は、同期の仲間である我妻善逸や嘴平伊之助とともに数々の鬼と戦いながら成長し絆を深めていく。炭治郎たちは鬼殺隊最高位の剣士である「柱」たちと共闘し、無限列車では炎柱・煉獄杏寿郎、遊郭では音柱・宇髄天元、刀鍛冶の里では霞柱・時透無一郎や恋柱・甘露寺蜜璃とともに死闘を繰り広げた。
その後、来たる鬼との決戦に備えて、柱による合同強化訓練・柱稽古に挑んでいる最中、鬼殺隊の本部である産屋敷邸に鬼舞辻無惨が姿を現す。お館様の危機に駆けつけた炭治郎や柱たちは無惨によって謎の空間へと落とされ、鬼の根城である無限城での最終決戦に身を投じていく。
【鬼滅の刃猗窩座再来】つまらなかったポイント
過剰な回想シーンがテンポを殺す
今作最大の問題点は、明らかに回想の入れすぎです。特に猗窩座の回想に長時間を割いた構成は、「映画」というフォーマットで観る者にとって非常にストレスフルに映ります。一対一のバトルが始まったと思ったら、味方の回想、続いて敵の回想と、感情の熱量が上がった瞬間に水を差されるような構成が何度も繰り返されます。
しかもその内容もどこか既視感が強く、「またか…」という印象を抱かせてしまうのが惜しいところ。ジャンプ作品によくある“過去の因縁”を描く手法ではありますが、映画という場ではもう少しバランスを考えてほしかったです。
美麗な映像も3D過多で没入感を妨げる
映像のクオリティそのものはさすがの一言。キャラクターの作画、アクションの迫力、エフェクトの使い方は極めてハイレベルです。しかし問題は3D演出の多用。スピード感を出すための表現かもしれませんが、それが仇となり、一部の観客には酔いを引き起こす結果になっています。
とくに子供連れの来場者にはこの演出は過酷で、冒頭のシーンから体調を崩してしまったという意見も。3Dの演出は適量であれば効果的ですが、今回のように「やりすぎ」になると、観客を置いてけぼりにする危険を孕んでいます。
“派手すぎて何が起きているかわからない”戦闘演出
本作の戦闘シーンは「見栄えは良いが分かりづらい」といった評価も多く聞かれます。エフェクトが多用され、高速で斬り合うスタイルは確かに迫力満点ですが、そのぶん一撃一撃の重みが伝わらず、印象にも残りづらくなってしまっています。
技の演出が派手であればあるほど、今どの攻防が行われているのか、誰が優勢なのかが見えづらくなるというのは皮肉です。
感動の押し売りに感じる構成ミス
回想シーンの多用がもたらすもうひとつの弊害は、「感動の押し売り」と捉えられること。登場人物が鬼になった理由や、悲しい過去は原作でも描かれている重要な要素ですが、それがあまりにも連続で、かつ似たようなパターンで語られることで、観客の共感は薄れていきます。
猗窩座のようにドラマ性が強いキャラならまだしも、全ての敵に同じテンプレを当てはめるのは、作品の感動力を逆に削ぐ結果となりかねません。
テレビなら許される演出も映画では致命的
時間以上という長尺の映画において、テレビ放送と同じ構成で進めるのは無理があります。回想や心理描写を多く入れるのは週刊連載原作アニメの“間”を埋める工夫として有効ですが、映画ではそのまま適用すれば観客の集中力を削ぎ、退屈に感じさせてしまいます。
今作もその罠にハマってしまった印象で、結果として「映画としては致命的な構成のミス」が目立つ出来栄えになってしまいました。
原作再現だけでは映画にはならない
原作ファンからすれば、忠実な再現として高評価かもしれません。しかし、映画はあくまで“独立した作品”として成立していなければいけないはずです。3時間近い上映時間、冗長な回想、情報量過多な戦闘シーン…これらは「テレビシリーズ」なら許容されても、劇場作品としては大きなマイナスポイントです。
これから観に行く方には、「ムダに長い映画」であることと「酔いやすい人は酔い止め必須」という点を念頭に置いていただきたいです。そして製作側には、もっと観客目線、体験重視の構成をして欲しいと心から願います。
【鬼滅の刃猗窩座再来】原作ファンと一般ファンの温度差
「原作ファンと一般ファンの温度差」とは、同じ作品を観てもその“感じ方”や“満足度”に明確な差が生じることを指します。とくに『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』においては、その差が如実に表れています。以下にその具体的な理由を解説します。
原作ファンは「待ち望んだ名シーン」が動くこと自体に感動する
原作ファンにとって、猗窩座の再登場や過去回想、炭治郎との決着は長年心待ちにしていた場面です。
すでにストーリーを知っているからこそ、「あのセリフが来るぞ」「ここで泣かされる」と心の準備ができており、それがアニメーションとして美麗に再現された時の感動はひとしおです。
また、猗窩座の回想の深さや矛盾、悲劇性まで読み解いたうえで観ているため、多少の構成の長さにも“意味がある”と納得できるのです。
一般観客は「映画」としてのテンポやエンタメ性を重視する
一方で、原作を知らない一般観客が求めているのは“一本の映画としての完成度”です。つまり、「テンポよく展開し」「映像で魅せて」「感情を乗せてくれる」こと。
そのため、戦闘中に頻繁に挟まる長い回想シーンは、物語の流れを止める“ブレーキ”にしか映らず、感情移入どころか冷めてしまうこともあります。また、キャラの背景が繰り返されることで「またか」と飽きを感じるのも当然の感覚です。
キャラクターへの思い入れがそもそも違う
原作ファンは猗窩座というキャラクターの成り立ち、心の闇、悲しき選択を熟知しており、その行動にすら深い意味を見出します。
しかし一般観客にとっては「過去に煉獄を殺した強敵」でしかなく、むしろ嫌悪感が残っているキャラとも言えます。そんな彼に感情移入を促すような回想を長々と見せられても、「なぜ今さら?」と感じてしまうわけです。
“再現”に価値を置く原作ファンvs“再構成”を望む一般ファン
原作ファンは“忠実な再現”を重視し、「そのままアニメにしてくれてありがとう」と感じます。
しかし一般ファンは、「原作のよさを活かしつつ、映像作品としてもっと練られた構成をしてほしい」と感じます。
これは視点の違いというより、“何を求めて映画を観に来ているか”の違いです。だからこそ、回想のタイミングやバトルの盛り上げ方にギャップが生じやすいのです。
原作補完 vs 映画体験としての満足度
原作ファンにとっては、映像化によってキャラの表情や感情の機微が補完され、「より理解が深まった」という満足感が得られます。
しかし、一般ファンにはその文脈がないため、「長い回想→あまり共感できない→退屈だった」という印象にしかならないこともあるのです。
これは“情報の蓄積差”がそのまま温度差として表れた典型例です。
どちらが正しいという話ではない
原作ファンと一般観客の温度差は、作品への愛情の深さや視点の違いによって生まれるものです。どちらが正しいわけではなく、むしろ“両者の視点に配慮できる構成”こそが、理想の映像作品に必要なことだったと言えるでしょう。
『猗窩座再来』は、その点で原作ファンには刺さった一方で、一般層にはやや不親切な作りだったのかもしれません。
それでも多くの人が劇場に足を運んだのは、鬼滅ブランドへの期待と、猗窩座というキャラの存在感があったからこそ。そこにある“期待と満足のズレ”こそが、まさにこの温度差の本質なのです。
【鬼滅の刃猗窩座再来】大ヒットした理由は?
劇場版『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』が大ヒットを記録した理由は、内容そのものへの賛否はあれど、興行的成功に繋がる土壌がすでに整っていた点、そして“猗窩座”というキャラクターの強烈な人気とドラマ性に支えられていた点にあります。以下に、その背景を掘り下げて解説します。
「鬼滅ブランド」への絶対的な信頼と期待感
最大の要因はやはり『鬼滅の刃』というコンテンツが持つ圧倒的ブランド力です。社会現象となった『無限列車編』を皮切りに、以降のTVシリーズや劇場公開方式をとった「遊郭編」「刀鍛冶の里編」でも、毎回大きな話題を呼びました。
ファンの多くは作品内容以上に「一大イベント」として劇場版を楽しみにしており、公開初週に観に行くこと自体が“体験”として定着しています。
この現象は、もはや「映画を観に行く」のではなく「鬼滅に参加する」という意識に近く、それが初動の爆発力に繋がっています。
猗窩座再来という強力なキャッチコピー
今作の副題にもなっている「猗窩座再来」という言葉には、多くのファンの期待が詰まっていました。猗窩座は『無限列車編』で煉獄杏寿郎を倒した因縁の敵であり、炭治郎たちとの再戦はファンにとっても長年待ち望んだ“リベンジ戦”です。
この「再来」が示すものは、ただの再登場ではなく、因縁の決着であり、過去との対峙であり、物語の核心に迫る戦いです。感情の爆発点として非常にキャッチーなテーマであり、これが観客の心を掴みました。
原作ファンによる“展開の知識”が熱量を後押し
本作のストーリーはすでに原作で完結しており、ファンは「どこが映像化されるのか」「どこで泣くのか」を知っています。
ネタバレがあるにもかかわらず、それでも“観たい”と思わせるのは、ストーリーのドラマ性とアニメ制作陣への信頼があるからこそです。「あの回想が動く」「あの名セリフがスクリーンで聴ける」という期待感は、原作完結済み作品ならではの強みでもあります。
言い換えれば、“分かっていても泣ける”という感情の先取りが可能な作品で、それが動員を後押ししました。
圧倒的な作画と演出の信頼、劇場クオリティの強み
Ufotableによるアニメーションは毎度“映画並み”と言われてきましたが、劇場版ではその表現力がさらに増します。
色彩設計、音響、演出、作画、どれもが日本アニメ界でもトップクラス。
とくに本作では猗窩座の必殺技の演出や、戦闘時の細かな動き、回想の美術背景など、視覚的な見応えが非常に高い。ストーリーがどうであれ「映像を観るだけでも価値がある」という声が多く、それが一般層の来場にも繋がりました。
家族・子ども層にも根強い人気
鬼滅のファン層は非常に広く、小学生から中高年まで幅広い年代が観ています。子どもにとって「映画館で観る」というのは特別な体験であり、家族で足を運ぶ動機となります。
とくに夏休みの公開タイミングも相まって、親子連れの観客が集中し、リピート率も高かった点は興行収入に大きく貢献しています。
“第一章”という言葉が呼ぶ連続視聴への期待
「無限城編 第一章」というタイトルには、“続く”ことへの期待と、今後さらに盛り上がるという約束が含まれています。これが、今作を「見逃せない一章」として位置付け、普段映画館に行かない層も足を運ばせる力を持ちました。
特に無限城編は原作終盤における最大のクライマックスですから、「ここからが本番」という意識が観客を動かしたのは間違いありません。
作品内容以上に“鬼滅”が生む熱狂の力
『猗窩座再来』がヒットした理由は、内容の良し悪し以上に、すでに形成されている『鬼滅の刃』というブランドと、観客の「体験したい」という欲求が合致したからです。
内容に批判的な声も少なくありませんが、それでも多くの人が劇場に足を運んだのは、“原作の節目”“因縁の戦い”“アニメとしての完成度”といった複数の要素が交差したタイミングもあります。
あなたが感じた違和感や批判も一つの正直な声として非常に重要ですが、それと同時に、なぜヒットしたかを見極めると、この作品がいかに“今の時代”にフィットしていたかがよく分かります。
【鬼滅の刃猗窩座再来】ネットの声

TV版であれば問題ない構成だが、映画であれはお涙頂戴の商業路線に傾きすぎた結果ではないでしょうか。

回想シーンも含めて原作を忠実に再現された構成でとても良かった!

ここで決める!って一撃の前後は最高にカッコよかったですが、それ以外は派手で見栄えは良いですが、正直何が起きているのかも分からないものが多かった印象です。
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