【チェンソーマン完結】2部ネタバレ評価!つまらない評価理由と本当の面白さを徹底解説!!

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「チェンソーマン、最近つまらなくない?」

X(旧Twitter)のタイムラインを開けば、そんな声が目に飛び込んでくる。第二部が始まってから、じわじわと広がってきたこの「冷却感」は、完結を迎えてもまだくすぶり続けている。でもちょっと待ってほしい。

本当につまらなかったのだろうか。それとも、「つまらない」と感じてしまうように意図的に設計されていた可能性はないのか。この記事では、チェンソーマン全232話を完走した上で、「なぜつまらないと言われるのか」「なぜそれでも傑作なのか」を、できるだけ論理的に、そして正直に書いていく。

先に白状しておくと、ぼく自身も第二部の途中で「あれ、これどこに向かってるんだ?」と迷子になりかけた一人だ。でも完結まで読んで、「あ、これ、意図的に迷子にさせていたんだ」と気がついた瞬間、背筋がゾッとした。

漫画で背筋がゾッとする体験、最近してたか?

それだけで、この漫画を語る価値はあると思っている。

そもそも「チェンソーマン」ってどんな漫画?


まず基本情報を押さえておこう。

『チェンソーマン』は藤本タツキによるダークファンタジー・アクション漫画で、2018年から週刊少年ジャンプにて連載が開始された。第一部は2020年に完結し、2022年からはジャンプ+に舞台を移して第二部がスタート。2025年に全232話で完結した大作だ。

アニメ化もされており、MAPPA制作の第一部アニメ(2022年放送)は世界的に高い評価を受けた。

物語の舞台は「悪魔」が実在する世界。悪魔ハンターを生業とする「デビルハンター」が存在し、人々を悪魔の脅威から守っている。

主人公・デンジは、借金まみれの貧乏少年。チェンソーの悪魔「ポチタ」と心臓を融合させたことで、体からチェーンソーを生やして戦う「チェンソーマン」に変身できるようになる。

第一部のキーワードは「欲望と支配」。デンジが「女の子に胸を揉ませてもらいたい」「普通の食事がしたい」という赤裸々な欲望を原動力に、悪魔たちと戦い、「支配の悪魔」という最終ボスと対峙する物語だ。

そして第二部。「支配の悪魔」が消えた世界で、今度は全員が「主体」となって好き勝手に動き始める。アサという新たな主人公格のキャラクターが登場し、世界はかつてよりも複雑で、混乱した様相を呈していく。

この「複雑で混乱した世界」こそが、賛否両論の震源地だ。

「つまらない」「ひどい」という声は本当に多い

完結直後、SNSや各種レビューサイトを眺めると、評価は真っ二つに割れている印象だった。

一方では「完璧な終わり方」「号泣した」「藤本タツキ天才」という絶賛の嵐。もう一方では「え、これで終わり?」「第二部、結局何がしたかったの?」「打ち切りみたいな終わり方」という不満の声。

特に第二部については、連載中から「つまらない」「読みづらい」「面白くなくなった」というワードが検索サジェストに並ぶほど、批判的な意見が積み上がっていた。

では、その「つまらない」という感覚はいったいどこから来ているのか。
ここからは、読者が挫折しやすいポイントを3つに絞って、丁寧に解剖していく。

【挫折ポイント①】「主人公が誰なのかわからない」問題

チェンソーマン第二部を読み始めて最初にぶつかる壁が、これだ。
第一部は明快だった。デンジという主人公が全編を通じて中心にいて、彼の欲望と成長を軸に物語が動く。読者は迷いなく「デンジ視点」で物語に乗っかれた。

ところが第二部。冒頭はアサという女子高生が主人公っぽく登場する。彼女の中には「戦争の悪魔」ヨルが宿っており、二重人格的な構造になっている。
「ああ、今度はアサが主人公なんだな」と思って読み進めると……デンジも登場する。しかも重要な立ち位置で。さらに読んでいくと、他にも「主人公顔」のキャラクターが次々に出てくる。

それぞれが「自分の正義」「自分の目的」を持って動いており、誰が「主役」なのかが物語の途中では判然としない。

これは明らかに読者を混乱させる。漫画というメディアは「主人公視点での感情移入」が物語への入り口として機能することが多い。その入り口を意図的に複数設けることで、読者は「どのドアから入ればいいのか」がわからなくなる。

ここで多くの読者が「迷子」になり、「つまらない」という感想に辿り着いてしまう。

だが後述するが、この「誰が主人公かわからない感覚」こそが、第二部が描こうとしているテーマそのものだ。「支配の悪魔」が消えた世界では、もはや「中心」が存在しない。全員が主体として動き始めた結果、物語自体も「中心」を失う。語り方と内容が完全に一致しているのだ。

ただ、それが「読みにくさ」として先に来てしまうのは否定できない。

【挫折ポイント②】「話が進んでいる気がしない」というテンポ感の問題

第二部の連載中、もっともよく見かけた感想のひとつが「結局何がしたいのかわからない」という言葉だった。
第一部にはあった「目標の明確さ」が、第二部には薄い。

第一部のデンジは基本的にわかりやすかった。「胸を揉みたい」「普通の生活がしたい」「好きな女の子に振り向いてもらいたい」。欲望がシンプルで、読者はそれに共鳴しながら読み進められた。

第二部のアサは違う。「チェンソーマンを倒したい」という目的を持っているが、なぜそれをしたいのか、達成することで何が変わるのかが、読み進めても靄がかかったままだ。

さらに視点が頻繁に切り替わり、新キャラが多数登場し、あるエピソードが盛り上がったと思ったら全然別のキャラクターの話に切り替わる。

週刊連載のテンポで読んでいると、前回のエピソードの余韻が消えないうちに別の話が始まる感覚がある。これが「話が進んでいない」という錯覚を生む。

実際には各話きちんとテーマに沿って進んでいるのだが、「縦軸」(主人公の成長や目標達成)が見えにくいため、「横に広がっているだけで前に進んでいない」という印象を与えやすい。

これは映画や小説でいう「群像劇」の難しさそのものだ。群像劇は往々にして、完結して初めて「ああ、これが言いたかったのか」と理解される構造になっている。連載という週単位での消費形態と、群像劇という構造は、本質的に相性が悪い側面がある。

週刊連載というフォーマットの限界を、藤本タツキはある意味で正面から殴りに行った。それが「わかりにくい」「つまらない」という評価に繋がった部分は、確かにある。

【挫折ポイント③】「第一部との落差」による期待値ギャップ

これは感情的な問題でもあるが、無視できない重要なポイントだ。

第一部のチェンソーマンは、漫画史に残るレベルの傑作だった。これは大げさでも何でもない。「マキマ」というキャラクターの造形、デンジの純粋すぎる欲望の描き方、衝撃的な展開の連続、そして「支配の悪魔」との決着。すべてが完璧に噛み合っていた。

アニメ化によってその評価はさらに広まり、「チェンソーマン=神漫画」という認識が多くの読者に刷り込まれた状態で第二部が始まった。

第一部を超えなければならないという呪い

第二部の初期、アサというキャラクターに「デンジほどの引力がない」と感じた読者は多かったはずだ。デンジの「胸を揉みたい」という欲望は、シンプルすぎるがゆえに誰でも理解できる普遍性があった。アサの「戦争の悪魔ヨルとの二重人格」という設定は、キャラクターとしての深みはあるが、感情移入するまでに時間がかかる。

また、第一部の絵柄のダイナミズムや、テンポの速さ、次の展開が読めない緊張感。それを「チェンソーマンらしさ」として定義してしまうと、第二部のより内省的でスローなリズムは「劣化」に見えてしまう。

しかしこれは「劣化」ではなく「変化」だ。同じ作家が同じ作品の中で、意図的にギアを変えている。
その「変化の意図」が見えてくると、評価は一変する。

【反転①】「散らかった物語」ではなく「散らかった世界を描いた物語」

ここからは、読むのをやめなかった人、あるいは完結後に読み直した人だけが気づける「面白さ」の話をしていく。第二部が「散らかっている」という評価は、ある意味では正しい。

主人公が多い。目的がバラバラ。みんな好き勝手なことを言う。全体を貫く目的地がなく、話があちこちに飛ぶ。
でも問いを変えてみてほしい。

「散らかった物語」と「散らかった世界を描いた物語」は、同じか?

答えは明確にNoだ。

第一部のキーワードは「客体と主体」だった。欲望を持つと誰かに支配される(客体化する)という構造の世界で、デンジは主体性を奪われながらも戦い続け、最終的に「支配の悪魔」を倒すことで自分の主体性を取り戻す。だから第一部の終わり方は美しい。「支配者を倒して自由になった」というシンプルな解放の物語として綺麗に閉じる。

では、支配が消えた後の世界はどうなるのか。

答えが第二部だ。

全員が「主体」になった世界では、誰も誰かに支配されない代わりに、全員が自分の正義を振りかざして衝突し合う。哲学者トマス・ホッブズの言葉を借りれば、これは「万人の万人に対する闘争」だ。

だから第二部は散らかっている。散らかっているのが正解だからだ。主体性を手に入れた世界がどれだけ混沌とするかを、物語の構造そのもので体現している。

これは高度な技法だ。テーマと語り口が完全に一致している。「主体性の暴走が生む混乱」を描くために、物語自体を意図的に「主体性が暴走した構造」にしている。

この設計に気づいた瞬間、「読みにくさ」は「巧みさ」に変わる。

【反転②】ポチタとのラストシーン「分かり合えない」が世界の真実

チェンソーマンの中で最も有名なキャラクターのひとつが、デンジの相棒・チェンソーの悪魔「ポチタ」だ。
物語の冒頭からデンジの唯一の家族として描かれ、二人の関係性はこの作品の感情的な核と言っていい。「チェンソーマン」というタイトルが指す存在はデンジであると同時に、ポチタでもある。

231話「さよならポチタ」でのラストシーン。

ポチタがデンジに語りかけるシーンで、多くの読者が「ん?」という感覚を覚えたはずだ。ポチタの語る内容が、どこか「的外れ」なのだ。最大の理解者であり、ずっと心臓としてデンジと共にあったポチタが、デンジの気持ちを「少しだけ」外している。
これは失敗ではない。意図された「ズレ」だ。

第二部のテーマが「主体化した世界では誰とも完全には分かり合えない」ということであるなら、ポチタですら例外ではない。デンジの最大の理解者ですら、ついには「わずかにズレた存在」になってしまう。

このシーンで重要なのは、ポチタが語る内容そのものではなく、「ポチタがもっともらしく語っていながら、デンジにとってはどこかズレている」という構造だ。

作品を通じた最大のテーマが、最もパーソナルな関係性の中で静かに結実する。これが「名作の終わり方」というものだ。

派手な爆発も、どんでん返しもいらない。ただ、最も信頼していた相棒が「少しだけわかっていなかった」という静かな事実が、この作品の全てを語る。

【反転③】最終話は『ラ・ラ・ランド』だった学

232話「ありがとうチェンソーマン」。

この最終話を読んで、映画『ラ・ラ・ランド』(2016年)を思い浮かべた人は、藤本タツキの仕掛けに気づいた人だ。

『ラ・ラ・ランド』のラストシーンを知っているだろうか。様々な葛藤と選択を経て辿り着いた「現実」の中で、「もしあの時こうしていたら」という「たられば」の世界が鮮やかに描かれる最後の10分間。あの場面を観た人なら、言葉の意味がわかるはずだ。

チェンソーマンの最終話は、同じ構造を持っている。

デンジが「本当は望んでいたもの」が、「たられば」として描かれる。

デンジが本当は望んでいたもの。それは何だったか?

・助けてほしかった。

・守ってほしかった。

・普通に女の子を助けて、普通に恋をしたかった。

・たかられるのではなく、先輩にたかりたかった。

・でも裸も見たいし、チェンソーマンになってヒーローにもなりたかった。

これらは矛盾している。全部は叶わない。でもどれも「奪われたものを取り戻したい」という受動的な欲望ではなく、「自分から欲した」主体的な夢だ。
ここが重要なポイントだ。

第一部を通じてデンジが手に入れたものは「主体性」だった。第二部を通じて描かれたのは「主体性の暴走が生む混乱」だった。そして最終話で描かれたのは、その全てを経た上での「デンジの純粋な主体的欲望」だ。

全部は叶わなかった。でも、全部は「彼自身が欲したもの」だった。

一部と二部全体を貫く「客体から主体へ」というテーマが、最終話の「たられば」の中で静かに完結する。
これは、構造的に非常に美しい終わり方だ。

第一部と第二部を繋ぐ「1話の眼帯」の意味

少し細かい話をしよう。でもこれを知ると、この漫画への愛着がひとつ増す話だ。

第1話で、デンジは眼帯をしている。

これは「ゾンビの悪魔」を倒すシーンで「目には目を」の描写を成立させるための仕掛けだ、という読み方ができる。ハンムラビ法典の「目には目を」という言葉は、一般的には「過剰な報復の禁止」を意味する。

しかしデンジの報復は常に「過剰」だ。

これはデンジが悪人だからではない。彼が「本来守られるべきだった子供」だったからだ。本来守られるべき存在が守られなかったとき、その傷は単純な「等価交換」では埋まらない。だから彼の報復は過剰になる。

完結まで読んだ後にこの1話を読み直すと、デンジの「過剰さ」が全て「足りなかった愛情の裏返し」として見えてくる。

漫画において「1話の仕掛けが最終話で意味を持つ」というのは、最高クラスの誠実さだと思う。232話という長い旅の始まりに、既に終わりへの伏線が埋められていた。

「評価が難しい漫画」ではなく「評価する側の準備が必要な漫画」

正直に言う。

チェンソーマン第二部は、「週刊連載を毎週追いかけながらリアルタイムで楽しむ」という漫画の消費形態に、おそらく最も向いていない構造をしている。

群像劇は、全体を俯瞰できて初めて意図が見える。週1話ずつバラバラに受け取ると、どうしても「つながり」が見えにくくなる。しかもチェンソーマンは1話あたりの情報密度が高く、絵の中にも意味が込められている。

「つまらない」と感じた読者の多くは、この作品が要求する「読み方」を、漫画に求めていなかったのかもしれない。

それは読者の問題ではない。漫画というメディアに対する既存の期待値と、この作品が要求するものとの間にギャップがあった、ということだ。

映画でも、小説でも、「何も考えずに楽しめる娯楽作品」と「頭と心を使わないと見えてこない芸術作品」は、評価基準自体が違う。チェンソーマンは、漫画という形式を選びながら、「芸術作品」として機能している。

それを「難しい」「読みづらい」と感じるのは正直な感想だし、批判として間違っていない。でも「つまらない」と「難解」は、別の言葉だ。

キャラクター論:アサ・ヨルという「二つの主体性」

第二部のもう一人の主人公であるアサと、彼女の中に宿る戦争の悪魔ヨル。

この二人は第二部のテーマを体現する存在だ。

アサは「自己中心的な主体性」の象徴だ。他人のために行動しているように見えて、根底にあるのは徹底した自己保存の本能。彼女の行動原理は常に「自分が生き残るため」だ。これは悪意ではなく、彼女が置かれてきた環境が育てた生存戦略だ。

ヨルは「戦争という主体性」の象徴だ。彼女の目的は「チェンソーマンを倒して核兵器の記憶を人間に取り戻させること」。これは一見「人類のため」に見えるが、実際には「戦争の悪魔としての本能」に従っているだけだ。

この二人が一つの体を共有しているという設定は、「主体性とはそもそも何か」という問いへの藤本タツキなりの答えだと思う。

純粋な主体性など存在しない。自分のために動いているつもりでも、それは自分という「存在の本能」に従っているに過ぎない。「意志の自由」と「本能の支配」の境界線は、思ったよりも曖昧だ。

アサとヨルという二人の同居が長く続けば続くほど、「どちらが本当のアサなのか」という問いは意味を失っていく。

これは「主体性の解体」というテーマとして、非常に誠実な描き方だ。

藤本タツキという作家の「挑戦癖」

チェンソーマンを語る上で、藤本タツキという作家のスタンスを無視することはできない。

彼の短編集『17-21』や読み切り作品を読んでいる人なら知っているはずだが、藤本タツキは「同じ手法を繰り返さない」作家だ。

ファイアパンチからチェンソーマン第一部で確立した「欲望と支配の物語」という方法論を、第二部では意図的に解体している。成功した手法を捨てて、より難解で挑戦的な方向に舵を切った。

これはビジネス的には「悪手」かもしれない。第一部のファンが離れるリスクは明らかだ。

でも藤本タツキは、それを承知の上でやった。

商業的成功よりも、「この物語が要求する語り口で語る」ことを優先した。このスタンスを「読者への不誠実さ」と取るか、「作品への最大の誠実さ」と取るかで、チェンソーマン第二部への評価は180度変わる。

「世界系」への静かな批評

少しマニアックな話をする。

「世界系」という言葉を知っているだろうか。「僕と君の関係性が、そのまま世界の命運に直結する」という物語構造のことで、新世紀エヴァンゲリオンに代表される日本のサブカルチャーにおける重要なジャンルだ。

チェンソーマン第一部は、ある意味で「世界系」だった。デンジという一人の少年の選択が、世界の運命を左右した。

第二部はその「世界系」を解体している。

「全員が主体を持って動いている世界」では、「主人公一人の選択が世界を救う」という物語は成立しない。みんなが「自分の世界系」を生きているからだ。誰もが自分を物語の中心だと思っており、その物語が無数に並列して存在している。これを「全員世界系」と呼んでもいいかもしれない。

全員が主体として動き出した結果、「世界を救うヒーロー」という概念が機能しなくなる。チェンソーマン(デンジ)は確かに世界最強の存在だが、「全員世界系」の世界では、一人のヒーローが全てを解決することはできない。これは「世界系」というフォーマットへの、静かで鋭い批評だ。

まとめ:チェンソーマンは「面白い漫画」ではなく「すごい漫画」だ

ぶっちゃけ、ここが「つまらない」と感じる理由
主人公が誰だか分かりにくい(誰を応援していいか迷う)

ゴールが見えにくい(毎週読んでいると、どこに向かっている話なのか分かりづらい)

第1部が凄すぎた(「あの神漫画の続き」として読むと、テンポの違いが物足りなく感じる)

でも実はここが「めちゃくちゃ面白い」理由
「ごちゃごちゃした世界」をあえてそのまま描いている

みんなが自分の意見を突き通そうとしてぶつかり合う、今のリアルな世の中を、漫画のストーリーそのもので表現しています。

第1部から第2部への繋がりが完璧

第1話から第232話まで、すべての話が一本の細い糸できれいに繋がっています。

「分かり合えなさ」のリアルさ

一番の親友や理解者であっても、どこか少しだけズレてしまう。そんな現実の人間関係の切なさがリアルに描かれています。

結局、どんな漫画なの?
この漫画は、ただの「スカッとするヒーローもの」として読むと、難しくてよく分からないと感じるかもしれません。

ですが、「作者がこの漫画を通して、今の社会をどう見ているか」を読み解こうとすると、これほど深く心に刺さる作品はありません。
SNSで誰もが自分の正義を叫び、誰が主役なのか分からない今の現実世界を、そのまま映し出しているからです。

もし第2部が「つまらない」「分からない」と感じた人は、第1部からの繋がりを意識して、もう一度一気に読んでみてください。きっと、まったく違う面白さが見えてきます!

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