呪術廻戦が再びスクリーンに帰ってきた。
そして、あの「渋谷事変」が――。
だが、今回の劇場版はただの映画ではない。
それは〈総集編×新章への橋渡し〉という特異な構造を持った、まるで“呪い”そのもののような異形の映像体験だった。
最初に言っておこう。
本作『劇場版 呪術廻戦 渋谷事変特別編集編&死滅回游先行上映』は、通常の劇場版ではない。
TVシリーズ「渋谷事変編」全18話をおよそ1時間に凝縮した総集編であり、その後に「死滅回游」序章(TV第3期1〜2話相当)を先行上映するという構成だ。
そのため、内容を知らずに観に行くと――
冒頭から高速で切り替わる映像と戦闘シーンの連打に、思考が追いつかない。
それはもはや「映画」ではなく「戦場」だった。
【劇場版 呪術廻戦 渋谷事変特別編集編&死滅回游先行上映】あらすじ
◤
TVアニメ第3期「#死滅回游 前編」
ティザービジュアル解禁&
放送日決定!!
◢#虎杖悠仁 VS #乙骨憂太
同じ師を持つ二人の死闘、
そして「死滅回游」が始まる――2026年1月8日より毎週木曜深夜0時26分~
MBS/TBS系28局
スーパーアニメイズム… pic.twitter.com/xzMkaCU5EB— 『呪術廻戦』アニメ公式 (@animejujutsu) November 7, 2025
2018年10月31日。
ハロウィンで賑わう渋谷駅周辺に突如“帳”が降ろされ、大勢の一般人が閉じ込められる。
そこに単独で乗り込むのは、現代最強の呪術師・五条悟。
だが、そこには五条の封印を目論む呪詛師・呪霊たちが待ち構えていた。
渋谷に集結する虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇ら呪術師たち。
かつてない大規模な呪い合い「渋谷事変」が始まる――。
そして、戦いはさらに広がる。
史上最悪の術師・加茂憲倫(羂索)が仕組んだ殺し合い「死滅回游」が始動。
全国十箇所のコロニーに、呪術師たちは囚われ、戦いはさらなる狂気へと突入していく。
虎杖の死刑執行役として、特級術師・乙骨憂太が立ちはだかる。
師を同じくする二人の魂が、呪いの海でぶつかり合う――。
【劇場版 呪術廻戦 渋谷事変特別編集編&死滅回游先行上映】ネタバレ感想つまらないところ
「ダイジェスト」構成による没入感の欠如
本作の最大の問題点は、あまりに圧縮された編集構成だ。
18話分を1時間で見せるというのは、もはや超常の技。
しかしそれは「編集技術の限界」と「物語体験の崩壊」が紙一重で同居していた。
「渋谷事変」というのは、呪術廻戦史上もっとも人間ドラマと倫理観が激突する章であり、虎杖の罪の自覚・野薔薇の死・七海の最期・真人との対峙など、重すぎる感情が積み重なる。だが、それが“カットの速さ”に呑まれてしまう。
観客は感情の波を感じる前に、次の戦闘が始まる。
「余韻」が生まれる前に、「次の悲劇」が襲いかかる。
まるで呪いのように、画面が切り替わるたびに情動がリセットされていく。
結果、泣くタイミングすら奪われる。
これほどまでに「感動が潰される映画」は珍しい。
「特別編集版」という曖昧な宣伝の罪
多くの観客が混乱したのは、まさにここだろう。
「特別編集編」と言われると、誰もが新規映像や再構成された映画的体験を期待する。
だが、実態はほぼ総集編――。
実際、映画館では最初の15分ほどで違和感が走る。
「これ、まだ導入かな?」と思っているうちに、気づけばエンディング。
しかも、死滅回游パートも“先行上映”の名のもとに短く終わる。
それなのに、宣伝では「劇場版」や「渋谷事変完全収録」といった曖昧なコピーが踊っていた。
これでは、観客を呪ったも同然だ。
映画のクオリティではなく、告知戦略の誠実さが問われる作品でもあった。
映像美の不均衡と“MAPPA疲れ”の影
MAPPA制作による作画・演出は、確かに一瞬一瞬が神がかっている。
だが、総集編ゆえの素材の再利用、解像度の不統一、明暗のバラツキが目立った。
劇場スクリーンで見ると特に顕著で、チェンソーマンや進撃Final期と比較しても質感の差が浮かび上がってしまう。
決して「作画崩壊」というレベルではない。
だが、劇場で“新作映画”として観るには物足りない。
アクションの迫力よりも、編集テンポが勝ってしまっており、「息を呑む」より「息を詰まらせる」ような緊張感がない。
MAPPAという名が背負う“期待の呪い”――それを象徴するような仕上がりだった。
【劇場版 呪術廻戦 渋谷事変特別編集編&死滅回游先行上映】ネタバレ感想面白いところ
渋谷事変の“地獄絵図”を映画館で体感できる幸福
正直、この作品を劇場で体験できるという一点だけでも、ファンにとっては感謝の言葉しかない。
渋谷事変という章は、呪術廻戦全体でもっとも密度の濃い群像劇であり、五条悟の封印、七海建人の最期、釘崎の死、虎杖の絶望――その全てが観る者の神経を焼き尽くす。
スクリーンで再現される「地獄の渋谷」は、まさに“呪術廻戦という作品の心臓部”だった。
特に、真人が群衆を歪ませながら笑うシーンの編集テンポ、悠仁がそれを前に膝をつく瞬間の静寂――あれはもう“アニメ”ではなく“悪夢の絵画”だ。
劇場という暗闇で、観客全員が一斉に息を飲む。
その一体感こそ、呪術廻戦の真骨頂だと感じた。
編集の速さが惜しいと言いつつも、スクリーンに映し出されるその破壊力は、家庭のモニターでは到底味わえない。
MAPPAの凄まじいエネルギーが、ここには確かに宿っていた。
虎杖と乙骨――“同じ師を持つ二人の罪と贖い”
後半の「死滅回游」序章は、作品全体の温度を一気に変える。五条という“太陽”を失った世界で、残された弟子たちがどう立つのか。
ここに焦点を当てる演出が非常に巧い。
乙骨憂太が虎杖を追う場面。
静謐な音楽が流れ、雨のように落ちる呪力の粒子。
ふたりの間に漂うのは、師のいない空白と、理解し得ない孤独。
「師を同じくしながら、互いを殺す運命」――この構図がたまらない。
乙骨が「虎杖を殺す」と宣言する場面は、“正義とは何か”という呪術廻戦の根幹テーマをそのまま突き刺してくる。原作を知る者であれば、これが単なるバトルではなく、“贖罪と継承の儀式”であることに気づくだろう。
虎杖の瞳に宿る罪の光、乙骨の声の震え、それを包み込む音楽の静けさ。
映像の余白に、芥見下々の筆致がそのまま染み込んでいた。
死滅回游のルール解説と文体演出の妙
この作品を“面白い”と感じた理由のひとつが、あの狂気的なルール説明が、アニメーションとして“読める”快感に変換されていたことだ。
「参加者は結界内で殺生を行うことで点を得る」
「点を一定数集めることでルールの追加を申請できる」
――まるで神の遊戯のような規則文が、スクリーンいっぱいに展開される。
芥見下々が原作で描いた“文字の暴力”を、MAPPAは文字通り“映像の呪い”として可視化した。
フォントの揺らぎ、光の滲み、ざらつく音の質感。それらが一体となり、観客の脳を直接叩く。
まさに、「読む」ではなく「浴びる」ルール。
あの瞬間、観る者は物語の“神”ではなく“被験者”になる。
この体験は、他のどのアニメ映画にもない。
死滅回游は、理解ではなく感覚で呪われる物語なのだ。
【劇場版 呪術廻戦 渋谷事変特別編集編&死滅回游先行上映】鑑賞後の考察
“呪い”とは記憶の再編集である
渋谷事変の総集編を“再編集”として見たとき、気づくことがある。
それは、この作品自体が“呪いの再生産”であるという点だ。
呪術廻戦における呪いとは、感情の残滓であり、形を変えた記憶だ。
つまり、総集編という編集行為自体が“呪い”そのものなのだ。
過去の出来事を切り貼りし、再構成し、異なる文脈で見せる。それは、人が過去を思い出す行為そのものではないか。
五条の笑顔、七海の退場、釘崎の叫び。
それらは編集の中で断片となり、観客の記憶に再呪詛される。
「渋谷事変」は、映画という形で二度呪われた。
だがその呪いは、“忘れたくない痛み”として観る者に刻まれる。
この映画を見終えたあと、静かに涙を流す人が多いのは、“思い出の再現”という名の呪いを、自分の中で再体験したからだ。
“救いのない世界”で、虎杖は何を継ぐのか
死滅回游編の導入は、希望を描かない。
それでも虎杖は立ち上がる。
彼の原罪――“両面宿儺を取り込んだ少年”という宿命が、今ようやく完成しようとしている。
彼の戦いはもはや「誰かを助ける」ではない。
「世界をこれ以上壊さないための犠牲」だ。
その姿は、まるで五条悟を継ぐ影のよう。
だが五条が“絶対的な光”であったなら、虎杖は“絶望を抱く人間の炎”だ。
乙骨との対峙は、まさにその象徴。
「誰かを殺してでも守る」「殺さなければ守れない」
その二律背反を生きることが、呪術廻戦という作品の哲学だ。
渋谷事変が“破壊の章”であるなら、死滅回游は“思想の章”だ。
そしてこの映画は、破壊と思想の狭間で、人がまだ立ち上がるという希望の断片を見せた。
【劇場版 呪術廻戦 渋谷事変特別編集編&死滅回游先行上映】おすすめな人
“渋谷事変”の痛みを再体験したい原作読者へ
この劇場版を最も強く心に刻むのは、やはり原作とTVアニメをすでに知る人だろう。
映像のテンポはあまりに速い。それでも、一つひとつの断片が鮮明に蘇る。
七海の炎のような最期、野薔薇の“生き様”そのもののような笑顔、そして五条の静かな封印――。
それらは総集編でありながら、観る者の記憶と融合して“個人的な呪い”へと変わる。
「もう一度、あの痛みを受け止めたい」
そんな覚悟を持つ者にだけ、この映画は真正面から応えてくる。
涙がこぼれるのは、過去が再び動き出す瞬間に立ち会えるからだ。
アニメを見逃したが、“物語の流れ”を一気に把握したい人へ
もしあなたがアニメをすべて追えていないなら、この映画は“時間の呪術”として最適な入門でもある。
渋谷事変という激動の18話を一気に体感できるのは、ある意味で最も効率的な物語学習だ。
ただし、情報量の洪水に飲み込まれる覚悟は必要だ。
だが逆に言えば、それは呪術廻戦という作品の本質そのもの。
混乱しながら、断片を掴み取り、呪いの構造を理解する。
それこそが芥見下々の描く“知の快楽”なのだ。
“バトルと哲学”を両立したアニメを求める人へ
呪術廻戦は単なるバトルアクションではない。
人間の“倫理”と“悪意”が衝突する文学的戦場だ。
そのことを、劇場版は再び証明している。
虎杖と乙骨の衝突は、拳で語る哲学。
「正義とは」「救済とは」「殺すとは」――
それらの問いが光の粒子のようにスクリーンを漂う。
この深度のあるアクションを、映画館という密閉空間で浴びられる幸せ。
もしあなたが、エンタメの中に思想の影を探す人なら、
この映画は間違いなく魂に残るだろう。
まとめ
『劇場版 呪術廻戦 渋谷事変特別編集編&死滅回游先行上映』は、賛否が分かれる作品であることは間違いない。しかし、作品の本質を理解すればするほど、
この映画がただの総集編ではなく、“呪いの記憶を再生する儀式”であることに気づく。
確かに編集の速さに感情が追いつかない瞬間もある。
だがその“圧縮された時間”こそ、人間が呪いを受け止めるスピードと同じなのだ。悲しみも後悔も、突然やってきて、一瞬で終わる。その残響だけが心に残る――まるで呪術廻戦そのもののように。
そして何よりも、虎杖と乙骨が織りなす死滅回游の導入は、これから始まる“最終戦争”の開幕を予感させる。五条悟という絶対者を失った世界で、残された者たちがどう生きるのか。
それはもはやジャンプ漫画の枠を超えた“人間の実存”の物語だ。
この映画は、観る者を選ぶ。
しかし選ばれた者にとって、それは確実に記憶に焼き付く。
それが、呪術廻戦という作品の“祝福された呪い”なのだ。
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